第二回 空手は農民のゲリラ闘争から生じたとするウソ2008.6.22
 空手の歴史に関し、巷間、実(まこと)しやかに語られるものの一つに「沖縄の空手は薩摩の圧政に抵抗する農民のゲリラ的闘争の中で編み出されたもの」とする珍説があります。

 しかし、それは真っ赤な嘘、全くの虚構であり、そのような史実も根拠も見出すことはできません。そこで、この問題の構成要素を抽出すると次のように整理されます。

一、空手はどのうような立場の人々によって伝承されてきたのか

二、空手の稽古が明治維新前まで秘密裏に伝承されてきた背景とは

三、いわゆる素手(空手)で鉄砲や刀槍と戦う農民のゲリラ的闘争とは何なのか

 以下、これらについて、どのように判断するのが適当かを考えてみます。



(1)空手はどのような立場の人々によって伝承されてきたのか。

 琉球武術としての空手は、(徒手武術としての)空手と表裏一体の関係にある琉球古武術とセットで伝承されるものであり、その意味では、そもそもいわゆるスポーツではなく、本土の古流剣術などと同じく総合武術としての膨大な体系を伝えるものであり、かつ文化遺産としての価値を持つものであります。

 これを伝承してきた中心的な人々は、(記録に残されている限りにおいては)農民や町人、職人や漁民ではなく、刀を取上げられた琉球士族(サムライの意)、なんかずく、按司(あじ)・親方(うえーかた)・親雲上(ぺーちん)・などいった上級士族に該当する身分の者、言い換えれば、王府の官僚・官人にして経済的・時間的に余裕のある階層の有志たちであったと伝えられています。

 つまりは、士族(サムライ・支配者)としての存在意義を追及することによる必然の結果としての武術の錬磨と言うことであります。

 このことは例えば、戦国時代の終焉を契機として提起された必然的な問題、即ち、戦闘者たる武士の存在意義(平和時における言わば武士の職分)とは何か、について追究した山鹿素行の辿りついた結論と相通ずるものがあります。

 彼は、「武士は生まれによって武士になるのではなく、行いによって武士となる」、「武士は、生産的な業たる農・工・商に携わる人々と異なり、道徳を究め模範的な生き方を世の中に示すために存在している」「模範的な生き方をしていない者は武士ではない」と断じております。

 その意味で(武器術を含む)空手は、禁武政策下にある琉球のサムライにとって、人間の内面的な進歩発展を実践方式で図る言わば生活の術であり、一種のシステムとして機能したものと言えます。



(2)空手の稽古が明治維新前まで秘密裏に伝授されてきた背景とは

 既述したごとく、平和の時代において戦闘者たる武士たちは、道徳を究め社会に範を示す職分たる自己のアイディンティティを求めて、行往座臥(ぎょうじゅうざが)、文武の道に勤(いそ)しむことを目標としました。

 このゆえに、巧まずして柔術・剣術を初めとして戦国乱世に源流を持つ様々な武術が百花繚乱のごとく花開き発展したのであります。

 とりわけ沖縄の場合は、琉球武術たる空手と琉球古武術がその中心であったこと、また、中国武術の教授形式たるいわゆる「拝師制度(弟子には一般弟子と正式弟子の区別があり、師が正式弟子として認可し師弟の契りを結んだ者のみがその流儀の秘伝を伝えられる仕組み)」の影響を受け一定の人間関係の中で稽古、伝承されていたと言うことです。

 言い換えれば、王府の官僚・官人たる空手修行者にとって、空手はあくまでも自己の精神修養・人格完成の手段であって、ビジネスや金儲けの手段では無かったこと、そのゆえにこそ、真に空手の道を研究・伝承しようという素養ある少数の人を選抜して教えたということであります。

 つまりは、教える必要の無い人には教えなかったというだけのことであり、教えるべき人にはキチンと空手の秘奥が伝授されていたということです。まさに事の性質上、そもそも公開すること自体に意味がなく、偏に「師は針となり、弟子は針」となって純粋に術理の継承が行われる環境づくりこそが重要視されていたのであります。

 その意味においては、かつての武術空手の術理は現代においても脈々と受け継がれていることは確かです。ただ、かつてもそうであったように、それがスポーツ空手のごとく一般化・顕在化しているかと言えば必ずしもそうとは言えないということです。言い換えれば、古伝空手・琉球古武術とはスポーツ化されていない空手のそもそもの原型が残されているものとも言えます。



(3)素手(空手)で鉄砲や刀槍と戦う農民のゲリラ的闘争とは何なのか
 
 そもそも、佐渡島より一回り大きい程度の沖縄本島で何ほどの武力闘争ができるというのでしょうか。益してや、沖縄支配のために常駐していた薩摩藩の軍兵は三百人前後と謂われております。

 たとえば、捕り方に追われた彼の侠客「国定忠次」は、広大な赤城山に逃げ込みましたが、その所在はほどなく突き止められ、「名月、赤城山も今宵限り」の名セリフを残して退散を余儀なくされております。

 ことがまだ中央政府の統治力が弱い奈良・平安時代ならともかく、徳川幕府によって天下統一された幕藩体制下でそのような革命もどきの武装蜂起が許されるはずも無いと考えるのが通常です。

 況んや、反乱の明確な目的も無く、指導者も存在せず、武器も用いず、ただ個々人が勝手に「素手・空手」で鉄砲や刀槍と戦ったと真顔で言われても、凡人の頭はただ困惑するのみであります。

 要するに、広大無辺の中国大陸を舞台とする水滸伝や三国志の世界を、単に薩摩の圧政と重ね合わせただけの超能天気なマンガ劇作家あたりが、空手よ斯(か)くあれかし、の願望を込めて妄想した荒唐無稽な作り話に過ぎません。

 普通の知性で考えればそれが信じていいことか、信じてはいけないことなのかの区別はつきそうなものなのですが。俗に謂う「鰯(いわし)の頭(かしら)も信心から」もしくは「あばたもえくぼ」とはまさにこのようなことを言うものであります。

 少なくとも空手はいわゆる武術の一形態であり、そのバックボーンが兵法にあることは言わずもがなのことです。兵法の本質はまさに孫子の曰う『兵とは、詭道なり。』<第一篇 計>であり、その最大の眼目は「まず自分自身に騙されないこと」にあります。

 いやしくも武術家を標榜する空手家が、意味不明な珍説・俗説を有り難く盲信することは、そもそも兵法の本義に背くものと言わざるを得ません。

 第一回 武器術と交差法について2005.1.3
 徒然(つれづれ)なるままにネットサーフィンしていると、面白い空手のサイトに出会いました。このサイトは「隠されていた空手」と題して現代空手(スポーツ空手)の抱えている様々な矛盾点を真摯に論じており、ネットの(空手)世界ではかなりの人気サイトのようであります。

 筆者もその姿勢と方向性には大いに好感を覚えるものでありますが、(合気道や居合道など他の武道のことはいざ知らず)とりわけ空手に関する部分についてはいささか首を傾げざるを得ない内容も見受けられます。

 彼の前九年の役の末期、源義家が都に帰って安倍軍との戦いの手柄話をしているとき、学者の大江匡房(まさふさ)から「好漢…惜しむらくは兵法を知らず!」と冷やかされましたが、義家は怒るどころか逆に礼を正して教えを乞うたという伝承があります。私もまさに「好漢…惜しむらくは」と語りかけたくなるような心境です。

 もとより筆者は当該サイトに対して恨みやつらみがあるわけではありません。どちらかと言えばその壮図を意気に感じ、老婆心ながら気付いた点を申し上げるということであります。とは言え、間口を広げ過ぎると際限が無いのでここではこのサイトで論じていた「交差法」に焦点を絞りたいと思います。この管理人氏を仮にH氏としておきます。

一、H氏の主張(その1)

 まず、H氏は交差法の導入部として平安二段(一般的には初段であるが松濤館流では二段としている)の最初の左中段外受け(これは松濤館流では内受けとしている。ただし、二段の場合は背腕の部位での上段受け)・右上段構えの所作を次ぎのように説明されておられます。


第一動作の一般的な解釈
 一般的には、前手の左内受けで相手の右追い突きを受けて、右手は次の準備動作として揚受けの位置に揚げます。
 次に、揚受けとなっている右手で相手の腹部へ下突き(流派によっては顔面に裏拳、または相手の次の左突きを打ち落とす)をし、左手は次の準備動作として耳のあたりにもってくる。さらに左手で鉄槌を相手の側頭部に打ち込み(顔面に正拳を打ち込む)、右手は腰に引くという解釈が本などに載っています。

 この用法が本当に使えるのでしょうか?

1、相手の右追突きを受けるのに左手の内受けはよいとしても、右手の揚受けの動作は必要なのだろうか。

2、相手の右追突きを前手の内受けで避けられたとしても、そのままの体勢(右後屈立ち)で右の下突きが相手の腹部に当たるのでしょうか。なぜこの時点で体を相手に向けて、正面に向かないのでしょうか。
 次の突きを上から鉄槌で叩き落すとしても、体勢が不自然であり解釈が不自然です。

3、別の方法として、この揚受けになっている動作は、もう一人の敵が正面から突いてきたのを避けるのだというのを聞いたことがあります。要するに、左と右から2人が同時に突いてきたのを、両手で同時に受ける型だというのです。
 「荒唐無稽ここに極まれり」とでもいうのでしょうか。「やれるもんならやってろ」と思わず言いたくなります。次の動作(下突き)との整合性もありません。


二、上記に対する筆者の見解
 T、(1に対して)
  そもそも攻防は陰陽の動きを基本としますので(但し両手攻防と片手攻防があります)、片手で受けたら他の片手は次ぎの攻防の準備姿勢を取ることは当然です。従って右手を額前に構えてることは不自然どころか極めて合理的な所作なのです。

 U、(2について)
  H氏が不自然と感じるのは(多少なりとも知性の有る方であれば)当然の疑問です。まさに不自然であります。

 武術空手が分かれば分かるほどいかにこの後屈立ちがナンセンスかしみじみと分かります(但し、素人目にはいかにも力強く格好良く見えるものであることは否定しません)。まさに今風の言葉で言えば「ありえねー!」ということになります。しかし、そのことを論じるとまた紙数が尽きてしますますのでここでは割愛します。ともあれ不自然でありその意味ではまさにHの主張される通りであります。

 とは言え、この型の所作自体には極めて重要な空手の秘伝が(まさに)隠されております。視点を変えてキチンと説明を受ければ誰しもがナルホドと納得をせざるを得ない内容であります。しかし、その内容をここで説明するのは本意でははありませんので割愛いたします。

 V、(3について)
  まさにこれはH氏の言う通りであり、筆者も諸手を挙げて賛同いたします。遺憾ながら(誰とは言いませんが)空手界にはこのようなデタラメを平気で言う人が多く、それをまた無批判に受け入れる人も多いようです。その意味では、空手を追究するのではなく宗教を追究しているような趣があります。残念!

三、H氏の主張(その2)

 以上の導入部を踏まえ、H氏は交差法について次のように説明されております。

第一動作 左内受け+右上段揚受け
 以下に久保田師伝の分解組手を説明します。

第一動作 左方向へ 後屈立ち 左内受け+右上段揚受け

 相手の左上段追突きを右上段揚受で受け、左内受けはアッパー(裏拳可)となります。実際には右揚受けの後、左足を前方に滑らせ後屈立となりアッパーを出します。
 この技も防御と攻撃がセットになっている交差法として伝えられています。今まで説明されていた用法と「右左が逆」なんですよネ。この説明を聞いたときは目から鱗でした。 「ダマされたぁ!」と思いましたよホントに。

 最近(平成15年8月)になって、空手道教範(昭和10年版)を見てビックリです! 久保田先生に教わった分解と同じモノが載っていました。この分解は、久保田先生から一番最初に習った分解です。


四、上記に対する筆者の見解
 H氏の「純粋な少年の夢」を壊すようで誠に申し訳ないが、こと空手の術理ということに関して(心を鬼にして)言うべきことは敢えて言いたいと思います。お許し願えれば幸甚です。

 さて、そもそも交差法というのは(確かに攻撃と防禦はセットになっておりますが)あくまでも一拍子の動作であり、そのことを含め少なくとも五つ以上の術理的要素が同時に作用するものです。それ以上の説明は割愛しますが、ともあれ、H氏の説明によれば明らかに二拍子であり、かつその他の重要要素の説明がありません。多分できないのではないでしょうか。

 H氏は、(松濤館流における従来の常識的な型の解釈と異なり)後ろ手の右手で受けて前手の左手で突くというのは画期的解釈であり実はこれが交差法であると言われておりますが、そのような所作は(攻防の陰陽という観点からすれば)当たり前のことであり取り立てていうほどの内容ではありません。逆に言えば、前手で受けて後ろ手で攻撃する交差法もあるわけです。

 H氏はスポーツ空手の所作を見て、受けは前手、攻撃は後ろ手などと勝手に思い込まれているようですが、それは上記のごとき理由により極めて一面的な物の見方です。 そもそもスポーツ空手の所作を踏まえて空手の術理を究明しようとすること自体が逆立ちした考え方であります。まさに「木に縁りて魚を求むる」行為です。

 ついでに言えば、船越先生の写真にある動きも交差法ではありません。極めた後ならばともかくも極めの最中に体が正面に近い左斜めを向いており、捌いている様子もありません。これを交差法というのは贔屓の引き倒しであると愚考する者です。

 いずれにせよ、この技法のオリジナルはクーシャンクー大(松濤舘では観空大)の技法から抜き出したものでありますから、平安二段の最初の所作は(基本的には)左外受け(松濤館流は内受け)・右上段構え・右拳槌中段打ち落とし・左上段拳槌打ちの技であります。因みに、この「左上段拳槌打ち」はH氏が冒頭説明されたような「側頭部」ではなく、「後頭部あるいはうなじの中央」を真後ろから打ちます。

 側頭部でも届くか届かないかなのにどうして後頭部など打てるか、との声が聞こえて来そうですが、まさにそれが秘伝の秘伝たる所以であります。

 因みにH氏は、この技法のオリジナルが知花朝信の「バッサイ大」にあると主張され、ご丁寧にも『最初の交差立ち裏拳の後の動作が、「右猫足立+右上段揚げ受け→左猫足立ち+裏拳」となっているのです。この動作を一挙動でやると平安二段(ピンアン初段)の最初の形となります』と解説されています。

 しかしこれは、右で上段受け(このとき左拳左腰)の後、その手で中段押さえ受けをしつつ、(左腰から)左逆拳突きをする意(従って左逆拳突きの肘が右拳の上に乗る形となる)であり、平安二段の所作とはその形と術理を全く異にするものです。かつ、H氏の主張される交差法でも何でもありません。

 そもそもH氏は平安二段の技法のオリジナルな意味(ただし応用という意味ではもちろんH氏の言われる所作もあるが)を取り違えているため、このようなこじつけ的なことを平気で言えるのだと思う。重ねて言うとこの技法のオリジナルはクーシャンクー大・クーシャンクー小の中にあります。

 ともあれ、平安二段の当該所作は(Hの言われるような)交差法ではなく、普通一般の本に書かれている通りの所作であります。しかし、古伝の古伝たる所以はその型の意味の解釈にあります。外形的所作が同じだからといって中味の技法までも(普通一般の本に書かれている内容と)同じというわけではありません。

 たとえば、外形としてのピラミッド(言わば型の所作・順序)は誰でも見ることはできます。しかし、ピラミッドの外形(型の所作・順序)を知っているからと言って、そのピラミッドがどのような理由で構築されたのか、その所以を誰でもが知っているわけではない(もとよりピラミッドの存在理由は諸説紛々でありますが、仮に古来からの伝承を知る者があればの意)、と同じことであります。

 とは言え、空手の型の中に交差法が示されていないのかと言えばそうではありません。例えば、パッサイ(大)における閉足立・上段輪受け、拳槌中段挟み打ちの後の四股立・右中段突き(但し松濤館ではこれを前屈立・右中段突きとしている)の所作がこれに該当します。

 また、武器術の型にはそれが厳然として残っております。たとえば、釵術の最も基本的な型、「津堅志多伯(つけんしたはく)」の後半部は(釵を逆手持ちにしての)追い突き・追い突き・四股立ちの追い突きの所作となっております。
 尤も、この三本目が何で交差突きなのか説明を受けなければ絶対に分かりません。まさに「隠された空手」ということになるのでしょうか。

 そろそろ紙数も尽きそうなのでこの辺で終わりにしたいと思いますが、空手における交差法とは、徒手術のみならず棒・釵・ヌンチャクなどの武器術全てにあるということです。逆に言えば、武器術で使える術理は徒手術に使えるということであり、徒手での術理は武器術にも活かされるということであります。


 因みに、フィリピンには『KALI(カリ)』と呼ばれる伝統武術があるそうです。60〜70cmの短棒を両手、または片手に持って打ち合いながら、様々な動きを練習するものだそうです。これを稽古された方は次のような感想を述べておられます。

 練習をしていて一番驚いたのは無手の場合、つまり武器を手にしていない素手の場合の技術もあることでした。その動きは棒を使う時の動きをそのままそっくり応用できるものでした。
 それまでに、居合・杖術・空手に伝わる六尺棒術などを練習したことはあったのですが、武器を操る動きが素手の体術でも生かせるとは思いませんでした。僅かながらでも『KALI』を体験したことは、私にとって武術に関する想いをまったく覆すものでした。


 重要なところは『空手に伝わる六尺棒術などを練習したことはあったのですが、武器を操る動きが素手の体術でも生かせるとは思いませんでした』の部分です。

 つまりこれは、この方の大いなる認識不足であり、実は、琉球古武術と古伝空手の関係はまさにその通りの原理で行われるものであります。しかも琉球古武術は(フリッピン武術のごとく)単に短棒のみならず、六尺棒・三尺棒・釵・トンファーなど八種の武器があり全てがその原理で動くものです。空手を真に理解するためには武器術を学ばなければならいないとする所以(ゆえん)であります。

 実は筆者もこの文を読んで非常に驚きました。まさに琉球古武術と古伝空手の基本原理がフリッピンにもあったからであります。どちらがどちらに影響を及ぼしたのかは定かではありませんが、ともあれ人間の知恵はいずこも同じということであり、その真贋の見極めは只に普遍的原理を踏まえているか否かということであります。

 日本人は確かに世界に冠たる優秀民族であり、とりわけ技術面においてその能力が発揮されるようです。しかし、裏を返せば、戦略的思考が不得手で、どちらかと言えば言われた通り、命ぜられた通りのことを批判もせず黙々とやるのが得意のようです。

 スポーツ空手がいまなお主流(スポーツ空手しか知らないという意)なのは世界でも日本だけのようであります。これも組織から言われたこと、命ぜられたをことを従順に受け入れ、ただ黙々とやることを得意とする日本人の悲しい習性なのでしょうか。

 とりわけヨーロッパではスポーツ空手は武道空手とは別物、つまりスポーツとして完全に割り切り、武道空手の追究に関してはむしろ琉球古武術に関心が寄せられ、空手と武器術の関係が真摯に学ばれていると聞きます。かつて空手先進国であった日本は(その民族的欠陥たる片面思考のゆえに)いまや西欧の風下に立とうとしています。

 まさに命ぜられたこと、既成のことは忠実に黙々とこなすが、肝心の戦略的発想を苦手とする国民性の欠陥がここでも遺憾なく発揮されていると歎ぜざるを得ません。

 スポーツ空手はスポーツ空手、しかし、真の空手とは何か、真の文化的価値とは何なのか。日本でもそれを真摯に学び、世界の潮流に乗り遅れないようする時代が来ていると愚考するものであります。
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