第18回 「空手とは?」のご質問に答えて2013.2.13
<ご質問> 空手とは?  素人空手家

 通りすがりの者ですが失礼致します。管理人様がトップページに示されている「空手とは何か?」という問題提起に以前から非常に興味を持ち、改めて今日の主流たるスポーツ空手についての疑念が強くなりました。私自身伝統空手を少々嗜んでおりましたが、その回答を明確に示せる指導者はこれまで居なかったように思えます。

 国技の相撲、また剣道・柔道等に関しては武道的な精神性は近しいでしょうが、それぞれ技術体系的に特色が有り違いが明確です。しかし空手の空手たる所以となると…、特に近年のスポーツ空手(現代空手)においてテコンドーやキックボクシングとの違いの説明はより困難であると思えます。

 私自身の見解としては空手の特色は「型」に有ると思っていました。しかし近年の空手において「型」はあくまで演武するものであり、実戦では使い物にならないとの意見も多々耳にします。
 私自身型の稽古をしていても、これが実戦で通用するとはとても思えません。実際組手稽古と型稽古を別物として扱う風潮すら伺えます。これでは踊りや体操と同じに思えてなりません。

 しかし管理人様の記述を熟読するほど、空手の秘伝は正に「型」に内包されてるのだと言う事が疑い様も無く思えるのです。古伝空手と現代空手は技術体系においてもそれ程に違うものなのでしょうか? であれば現代空手の意義とは一体何なのでしょうか? 拙い文章で申し訳ありませんが、管理人様のご見解を教えて頂けたら幸いです。


<ご回答> 通りすがりの素人空手家様へ  管理人

 真摯な書き込みを賜り誠に有難うございます。慎んでお答えしたいところではありますが、お尋ねの件の大半は、既に弊サイトにて詳説しております。お手数ですが下記の頁をご参照ください。

 「空手史の考察」 http://kodenkarate.jp/history03.html

 「琉球古武術」 http://kodenkarate.jp/ryukyukobu.html


 とは言え、折角のご質問でありますので、ここでは@空手と武器術の関係、A古伝(武術)空手をスポーツ空手の次元で読み解くことには無理がある、B空手を稽古するそもそも目的とは何か、という視点から論じて見たいと思います。


1、空手と武器術の関係(空手とは何か?)

 いわゆる「空手」という表記は、沖縄では、明治38年(1905)、県立第一中学校の空手師範をしていた花城長茂師が『(武器術を外した)徒手空拳の相対練習法』の意で「空手組手」と表記したのが嚆矢(こうし)とされ、本土では、昭和4年(1929)、慶応義塾唐手研究会(船越義珍師範)が慶応義塾空手研究会と改称したのが最初とされます。ただし、この場合の「空」は徒手空拳の「空」の意でなく、いわゆる大乗仏教で一つの哲学的思想体系として発展した「空」の文字から取ったものと謂われています。

 彼の摩文仁賢和師はその著書「空手道入門」で、『それまでは沖縄においては拳法のことを「からて」と云ったことは無く、ただ単に「手(テ)」と云っていた。沖縄拳法のことを単に「テ」と称するのに対し、中国拳法を「トーデ」と称して区別していた』と述べておられます。

 因みに、手(てぃ)とは、日本語でも沖縄語でも「てだて・わざ・計略」などの意で武術・技・兵法に関する言葉として用いられます。

 つまり、手(てぃ)とは、「武器術を外したいわゆる空手の意」+「武器術」という形で構成されるまさに琉球武術の意と解されます。武術である以上、自ずからそこには共通の術理が存在するゆえに、上達の構造上、徒手の空手と併せて武器術たる棒・釵・トンファーなどの武器を稽古するのは極めて当然のことであります。

 因みに、拳聖と謳われた彼の糸州安恒は、『古来、空手と武器術(棒・釵・トンファー・ヌンチャクなど)は兄弟両輪の関係にあり、両者の併習は必須である』と力説されていたことは夙(つと)に知られております。

 また、中国では、拳法を学ぶ者は武器を併せて学ぶことが常識となっており、武器は手足の延長であって、拳法と異種のものではなく、長短の武器を学んでこそ拳法の全てを理解できるものと言われています。

 このことはつまり、空手と武器は、陰陽・表裏一体の関係ゆえに、両者は循環往復して尽きることのないスパイラルな上達構造を有していることを示すものであります。逆に言えば、(徒手の)空手のみを単独で稽古することは、(空手と武器の)極まりなき術理の上達構造の過程を自ら放棄することであり、おのずから(琉球)武術とは似て非なるものとならざるを得ず、本来の空手たるのアイディンティティを失ったものと言わざるを得ません。


2、武術空手をスポーツ空手の次元で読み解くことには無理がある

 そもそも琉球武術を出自とする空手が、その根幹たる武器術の稽古を不要・無用のものとしてこれを切り離し独り歩きすることは、その初めから専門的に拳足のみをもって打ち合う打撃系格闘技たるボクシング・キックボクシング、はたまたテコンドーなどと同類同質のものと化さざるを得なくなります。

 本来、その土俵を異にするものが(色々な意味で異なる)相手の土俵に上るわけですから、空手の空手たる所以(ゆえん)のアイディンティティが失われるのも宜(むべ)なるかな、であります。

 かてて加えて、歴史的に見れば、空手の本土伝来のそもそもから、その本質の何たるかが弁(わきま)えられること無く一知半解・消化不良のまま、世の空手に対する興味と関心がスポーツ競技的なものを指向する趨勢となり、表面的なその面白さと分かり易さから結局は、(突き蹴りを主とする)スポーツ空手が時代の中心勢力として発展し、今日に至ったものであります。武術的空手とスポーツ空手がその本質を異にする所以(ゆえん)であります。

 両者の関係は、あたかも、松濤館流空手を出自とするテコンドーと松濤館流空手との関係のごときものと言えます。松濤館流空手から見れば、まさに「テコンドーは空手ではない」と言わざるを得ません。が、しかし、それは詮なきこと、野暮というものであります。どう謂われようと、その出自がどうであれ、テコンドーはテコンドーとして、既に確固たる地位を築き、市民権を得ているからであります。要するに、両者は別物であると言うことです。

 言い換えれば、ことは善悪の問題ではなく、それらを選択する人の立場、もしくは当人が何を志向しているかの問題となります。逆に言えば、その違いをキチンと弁(わきま)えることこそが、(ひとり空手に限らず)今日、処世上の最重要の課題と言えます。

 ともあれ、一般的に、空手と言えば、徒手空拳で行うものとのイメージが定着しているようですが、それはあくまでもスポーツ空手(現代空手)という範疇を言うものではあっても、武術空手という観点においては大いなる誤解であると言わざるを得ません。

 そもそも、道具を使うことによって進化してきた人間同士の戦いが、単なる素手の戦いに終始することなど有り得ようはずもなく、まず武器としての道具を使うことが優先されることは理の当然であります。

 蛇足ながら言えば、武器をもった人間集団の戦いは、そこに兵法という知恵が加わることによって、単なる力の争いの場から知略(知恵)の争いの場へ変質するのであります。今日もなお、孫子兵法が読み継がれている所以(ゆえん)であります。

 ともあれ、手足の延長たる表芸としての武器術がある以上、その裏には徒手空拳たる「武術空手」が存在することは理の当然であり、陰陽・表裏一体の関係にある両者は、まさに一つの物の両面であります。そのゆえに、例えば、空手の「突き」や「受け」は、なぜあのような形態になっているのかは、武器術との関係において捉えなければその実体には迫れない、と言うことになります。

 とは言え、スポーツ空手の立場から言えば、「そんなの関係ねー。問題外だ。スポーツである以上、ルールがあり審判がいる。それに則しての勝ち負けがある。その結果を出すためにどうするか、それが問題なのだ」ということになります。
 奇しくもそれは、彼の偏差値優先的教育の根幹にある「ともあれ、テストの点数が全てだ。点数にならないことはやるな、やっても意味がない」の思想と酷似するものと言わざるを得ません。今日、武術的空手とスポーツ空手がその本質を異にする所以(ゆえん)です。

 言い換えれば、まさにご質問者様ががご指摘されるがごときの状況、即ち『しかし空手の空手たる所以となると…、特に近年のスポーツ空手(現代空手)においてテコンドーやキックボクシングとの違いの説明はより困難であると思えます』は、蓋(けだ)し当然の結果である言わざるを得ません。


3、空手を稽古するそもそも目的とは何か

(一)琉球武術(古伝空手・琉球古武術)の効用

 スポーツ空手の功績は何と言っても空手人口の底辺を拡大発展させたことにあることは言うまでもありません。また、他人と力比べをし、その優劣を競いたいとする青少年期特有の性向とエネルギーの受け皿としてのスポーツ空手は、寸止め式であれ、フルコン式であれ、それなりの価値を有することはこれまた論を俟ちません。

 とりわけ、「親の脛かじり」的な意味において言わば半人前の存在たる青少年が、有り余る時間と溢れる若さをスポーツ空手にぶっつけることは実に純粋な美しさがあります。

 しかし、一般的に世の中は、単純な力の競い合い、もしくはスポーツ感覚的な勝負観がそのまま通用する世界ではありません。とりわけ、人間集団の戦いは、そこに兵法という知恵が加わることによって、単なる力の争いの場から知略(知恵)の争いの場へ変質するのであります。

 であるがゆえに、個人の生存を懸けて、あるいは一家眷属を養い、日々の生活向上を目指して、日夜、実社会で奮闘している言わば一人前の大人たる社会人の方々こそ、まさに(いつまでも青少年と同じ次元でのスポーツ空手の勝敗に固執することなく)兵法的視点を踏まえての武術的空手を志向する必要があると言わざるを得ません。

 因みに、琉球武術(古伝空手・琉球古武術)は、中国武術を源流とするものゆえに、孫子の兵法的思想が色濃く流れているところに特長があります。古伝空手・琉球古武術を併習することにより、抽象的で難解とされる孫子の兵法的思想が具体的、かつ視覚的に修得できる優れものであります。

 また、琉球古武術は、棒・サイ・トンファー・ヌンチャク・鎌など八種の武器を両手に掴(つか)んで稽古します。この物を掴(つか)むという運動に着目すれば、まさに大脳と直結する触覚細胞が一番多く集中している「手」を、とりわけ頻繁(ひんぱん)、かつ複雑に使用するものであるため、脳科学的には、大脳の使用エリアを拡大し中枢機能を高める効用があると謂われております。

 さらに、古伝空手・琉球古武術は、いわゆる実戦の場で編み出された古武術そのものであるため、これを稽古することにより、伝統武術、すなわち真の護身術というイメージによる意識の転換が生じて、伝統武術の特性たる人生万般に通じる戦いの原則に目覚めるとともに、自分の体は自分で護れるという自信が湧いてきます。

 何はともあれ、まず自分の体を自分で護れることが、精神安定の根本であり、健康を保つ基本であるゆえに、その意味でも、まさに琉球古武術・古伝空手は最適な健康法ということができます。


(二)人はなぜ己を鍛え、己を磨く必要があるのか

 一般的に、経営学の大家が経営に成功した例(ためし)は余り聞かないように、いくら立派な戦略・戦術を論じても肝心の当人に人を統率する能力がなければ、折角の名論卓説も所詮は「絵に描いた餅」「机上の空論」とならざるを得ません。孫子が、戦いは、結局「人にあり」と論ずるがごとく、この世のことは畢竟(ひっきょう)自分自身をいかに鍛え、いかに磨くかに尽きるのであります。

 彼の釈迦は、『己こそ、己のよるべ、己を措(お)きて誰によるべぞ。よくととのえし、己にこそ、まことに得がたき、よるべをぞ獲ん』(法句経)と。

 つまり武術的空手は、知的探究心・肉体的鍛錬・護身術・感性の向上・求道的な心の深まりなど人格をつくり上げる要素を具有するものゆえに、「人格完成」という永遠の頂きを目指して己の意志と努力を唯一の友として生涯極めて行こうとする上達構造の過程を有するものであります。

 因みに、松濤館流空手に伝えられる「五条訓」の第一条、「人格完成に務むること」とはまさにそのことを言うものと解されます。即ち、『人間の脳はその人の努力次第で年齢に関係なく変化するものであり、その意味で、脳が完成するという日は永遠に来ない。だからこそ完成に向けて一歩一歩、生涯努力していくのが「天の道」ならぬ「人の道」である』と。

 言い換えれば、戦いの相手を(スポーツ空手のごとく)競技という形で外に求めるのではなく、戦いの相手を(最強最大の敵たる)自己の内に求め、武術的・精神的練磨を通して『絶対的二者択一』たる自己との対決に打ち克つ道を求めるのが武術空手なのであります。

 その意味では、空手は純粋に個人的な武術であり、究極的には求道的な武術であり、まさに「剣禅一如(生の執着を断ち切る修練という意味においては剣の道も禅の道も同じであるの意)」という思想を追及するには最も適した武術であると言えます。

 そのゆえにこそ、(同じやるのなら)生涯追究しても尽きることの無い本物の古伝空手・琉球古武術か否かをキチンと見極めることが肝要となります。

 そのような空手本来の修行目的を追究して行くその結果として、武術の本質的要素たる強さがいつの間にか身に付いてくる、というのが一人前の大人たる社会人の在るべき空手修行の姿と言えます。今日の一般的風潮のごとく、いたずらに目先の結果ばかりを追求していると、結局は、本来の目的を見失うこととなり、本末転倒の謗(そし)りを免れません。

 第17回 古伝空手はどこでも教えてくれるのか2012.10.21
<ご質問>

 名古屋に住んでいるO・Jと言います。名古屋で古伝空手を習いたいのですがどこか適当な教室を教えてください。


<ご回答>

 あいにくとお尋ねのようなところは寡聞にして存じ上げません。悪しからずご了承ください。

 ただ、古伝空手はどこでも習えるような類のものでは無いと思います。希少価値だからこその古伝空手であります。因みに、弊道場では熱心な方は、茨城県、静岡県、福島県、埼玉県の川越市や行田市などから見えております。

 一般的に言えば、自分が求めていること、そしてそのことに価値があると確信している人は例え遠かろうと学ぶために苦労は厭(いと)いません。なぜならば、そのことを学ぶことそのものが悦びだからであります。

 とは言え現実問題として例えば九州や北海道に住んでいる人は、地理的・経済的・時間的な制約を受けるため自ずから無理があることは確かです。

 その意味で古伝空手を習うということは基本的にその人の置かれた様々な条件、例えば近くにその道場があるとか、たまたま良師に恵まれるなどの、いわゆる「運」が左右します。名古屋で習いたいからと言って、否、名古屋に限らず全国どこでも簡単に直に習えるという性質のものではありません。

 逆に、そのような条件を完全に満たしていたとしても、最も本質的かつ究極の条件たる修行者自身の資質、言い換えれば、古伝空手に対する探究心や理解力に欠けている人、あるいはその価値の分らない能天気の人などは、まさに「猫に小判」「豚に真珠」状態であることも確かです。

 哀しいかな、世の中とはそうゆうものであります。真に有意義な日本の文化遺産たる古伝空手も、日本では、その価値に目覚めている人は未だ、極めて少数派と言わざるを得ません。

 とりわけ、日本ではスポーツ空手が中心で、その競技に役立たないものは全て価値がゼロと判断され勝ちであり、真の空手に真摯に取り組もうとしない人が大多数です。あたかもそれは、偏差値アップに直結しない、もしくは入試に役立たない類の勉強は無意味である、と解するがごときものであります。

 とかく日本人はマインドコントロールに陥りやすい国民性なので大真面目にそのような悪しき片面思考に染まり勝ちなのであります。


 ところで、東欧のスロベニア在住の友人から漏れ聞くところによれば、ヨーロッパなどではすでにスポーツ空手の熱は相当に冷めつつあるようです。

 その理由について、彼は次のように解説しております。

@スポーツ空手は3、4年続けると先が見えてしまうので深みがないこと。

A競技という性格上、どうしても無理をするのでケガが多く、健康的でないこと。その割りには(武術的、護身術的という意味で)強くならないこと。

Bスポーツ空手という意味においては、既に自分達(ヨーロッパ人)の方が上であり、いまさら日本の空手に学ぶものは何も無い、という自負心が芽生えていること。

 その意味で、今、彼の地で人気があるのは、合気道や琉球古武術であると彼は語っております。やはりそこにはスポーツ空手には無い、いわゆる東洋の神秘が感じられるからであり、座禅ブームなどと同じく、彼らが真に求めているものはまさにそこにあると言うのです。

 つまり、日本の誇る武術的な空手は、今、本家・日本を飛び越えて、欧米を中心に受け入れられ教授されている傾向にあるということです。

 日本人とは全く逆で、実に礼儀正しく謙虚で熱心に学び、熱烈歓迎してくれる欧米人の方が、傲慢不遜で頭の固い不勉強な日本人よりも教える側にすればダントツで教え甲斐があるということです。

 その内、古伝空手や琉球古武術を欧米から逆輸入する日も遠からず訪れるであろうと言わざるを得ません。私も暇が出来たら、韓国にでもでかけ古伝空手・琉球古武術を教授したいと思っております。

 日本人に対する歴史的なコンプレックスの反動なのか、何でもかんでも本家を名乗りたがっている韓国人が真の意味での空手を学ぶことは、間違いなく彼らに、空手の本家は韓国なり、の信念を植えつけることでありましょう。

 残念ながら日本人は、そうなるまで己に気付かない傲慢さを持つ民族性であると私は解しております。

 終わりに、O・Jさまが、良き師に巡り合われんことを祈念申し上げます。

 第16回 目からウロコです。関東在住5段。2012.5.21
<お便り>

 某流派の空手を始めて早や、数十年、今では健康維持のために空手を楽しんでおります。

 管理人様の琉球武術としての古伝空手と、大正時代以降、主として大学空手部を中心に発展した徒手空拳だけの日本式空手の説を拝読し、まさにこれが巷に蔓延している「群盲、象を評す」が如きの主観的・表面的・一面的な空手論に対する核心を衝いた正論であると納得しました。

 そのような、言わば物事の原因と結果も理解せずに、ただ今日の日本式空手における様々なスタイルに対する好き嫌いの感情だけで、やれ寸止めだ、極真だ、防具だ、と語るのが実に情けなくなりました。今後の空手の楽しみ方に光明が見えた気がします。有難うございます。


<ご返信>

 過分なるお褒めの言葉を賜りありがとうございます。当方と致しましては分かる人に分かっていただければこれにすぐる喜びはありません。

 ところで、日本人の民族的特性は実に生真面目であり、いったん目標が決められたら一致団結・全員で一気に走り出し、反対を許さない体質があります。例えば、かつて彼の郵政民営化法案に自民党議員の一部が強硬に反対して、いわゆる造反組を結成、
反旗を翻しましたが、その後の硬軟両面の懐柔工作により造反は敢え無く空中分解したことなどを見れば一目瞭然であります。

 そのような状況下にあって「信念を貫いての打ち首は男子の本懐」とただ独り反対を貫いた議員は一人だけです。逆に言えば、我々は、このような人物こそ真の人間、真のリーダー、真のサムライ、国の宝として高く評価すべきであると思います。

 ともあれ、一億、火の玉のごとく一致団結するのは日本人の極めて優れた長所であり、まさに日本が世界に冠たる所以でもありますが、反面、何が正しく、何が間違っているかの判断を先送りし曖昧にしたまま突き進んだ場合は、直ちにそれが日本の危うさとなり、怖さともなります。

 言い換えれば、リーダーに適任者を得れば実に有益な結果をもたらしますが、もしその逆であれば(良く知られた鼠の集団行動のごとく)リーダーを先頭に海に飛び込むという仕儀になり兼ねません。

 一般的に、いやしも一国のリーダーたる者は、かつての武士のごとく「人間として生きる教養としての論理」をキチンと弁えていることが最重要の課題であります。が、しかし、今日の日本のリーダーは、(かつての武士道教育とは似ても似つかない)いわゆる偏差値優先教育の成果たるペーパーテストで選抜されるシステムゆえに、凡そ、リーダーとはお世辞にも言い難い、胆力・判断力・責任感の欠落した人物が多いようであります。

 その端的な例が彼の福島第一原発事故であります。膨大な損害賠償金の支払いに比べれは極めて微々たる僅かな金銭を惜しんで、しかも、その気になれば幾らでも出来たはずの電源確保の安全策を無作為に放置したがゆえに、今日、地元の福島県民はもとより日本国民に有形無形の多大な損害を与え続けています。もはやこれは、人道上の大罪と断ぜざるを得ません。ゆえに、その責任の所在を必ず明確にし、彼らの能天気な無責任と信念の欠落振り、そして何よりも「人間としてのレベルの低さ」を満天下に晒すべきであります。

 まさに、孫子の曰う『爵禄百金を愛(おし)みて、敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり。民の将に非ざるなり。主の佐(たす)けに非ざるなり。勝ちの主に非ざるなり。』<第十三篇 用間>の言をそのまま地で行く所業と言わざるを得ません。

 要するに、「一国のリーダーに人を得ていないことほど、国民にとって不幸なことはない」ということであります。そもそも、ペーパーテストで選抜されたリーダーは、まさに才智に優れた者ではあるが、古来、才智に優れた者は、道徳、言い換えれば「人間として生きる教養としての学問」とは凡そ遠い存在であると謂われています。

 つまり、この傾向の人は、徳を忘れて才智に走り易いのであり、そのゆえに、そもそもリーダーには不向きなのである。言い換えれば、才智では道徳の本当の意味を理解できないということです。まさに「天は二物を与えず」の根拠であり、参謀的資質の者が全軍の司命たる大将になってはいけないということであります。

 つまるところ、大将の器ではない手合いが優秀なリーダーとして君臨している日本は、実に能天気な国家と言わざるを得ません。今日、日本国民が陥っている様々な苦境も宜なるかなであります。

 ついでながら言えば、先の太平洋戦争で日本が敗れた真の原因は、まさに常識・道徳を弁(わきま)えた本物のリーダーが欠落していたことと、そのような似非リーダーに盲従していた日本人の民族的特質たる情緒的かつ硬直的な思考であります。


 それはさておき、管見するに、日本の空手界の現状、とりわけスポーツ空手(競技空手)のそれは、善くも悪しくもまさに上記の日本民族の特質が遺憾なく発揮されているように見受けられます。

 空手愛好者の底辺を広げ普及させることは、それはそれでもとより素晴らしい方向ではありましょうが、それとは別に空手の本質、その拠って来る所以(ゆえん)を真摯に追究することは空手の真の発展という意味ではこれまた意義あることと考えます。

 「関東在住5段」様の益々のご精武、ご健勝を心より祈念申し上げます。
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