第四回 なぜ武術的空手を稽古すると充実感が違うのか2011.8.6
「道場生 K氏」からの書き込み

 稽古復帰後、いい汗を流させていただきありがとうございます。
 やはり、稽古で流す汗はいいです。休んでいた間、筋トレやで登山(冬山はキツイっす)等で汗をかくこともありましたが、何か違う気がします。

 うまく表現できないのですが、武道の持つ歴史の重み、そして何より一挙動ごとに深く考えながら動くこと、それゆえ、同じ汗でも充実感が違うのかなと勝手に考えています。 

 空手を始めて早や25年。不惑の年を迎え、肩の力も少しは抜け、また、違った角度から、そして新鮮な気持ちで稽古できることに喜びを感じています。今後ともご指導よろしくお願いします。

 さて、本題ですが、前回質問の回答にございました先生の宿題についてですが、特に得意技的発想についてが、自分にとって一番の欠点であると考えました。

 日常に当てはめてみれば、「自分の方が筋が通っている」、「自分の方が実績を上げている」、あるいは「口先だけでなく仕事しろ」等々、思いつくところはたくさんあります。それを堂々と言えるがために努力をする。そんな発想が根底にあります。

 言い換えれば、スポーツで相手に勝つために、血と汗と涙を流し努力する。それが美学だ…。ただそこまでの発想です。自己満足の域を出ないといわれても仕方がありません。

 もちろん努力を否定しているわけではありません。まずはそれが基本であると思います。

 しかし、そのような単純なスポーツ的発想(初歩的発想)では、多くの利害関係が飛び交う複雑怪奇な実社会において、通用しないケースが多いことを、社会人経験を重ねるにつれ、ひしひしと感じています。

 だからといって、要領だけの茶坊主的な生き方は、やはり好みません…。

 例えれば、山の頂上へ自分の足で登るのと、ロープウェイで登るのでは、まったく味わいや満足感が違いますし、多少困難やリスクの伴う登山の方が克服感があるのは確かです。人生に置きかえてみれば、事なかれ的な生き方では退屈だとも思います。

 ではどうするか、月並みですが、向上心を持って、多くの知識を吸収するとともに、大いに悩み、考え、それを経験に結びつけ、日常のいろいろな場面や状況において遭遇する問題に対し、最適の答えを自らが出す、その責任を自分で負うということだと考えました。

 「人生意気に感ず」好きな言葉です。人生ゲームを楽しめるかどうかは自分次第。不得意技も少しずつ克服しながら、前を向いて歩いていきたいと思います。


<管理人>からの返信

『日用の学として孫子兵法を学ぶ意義』


一、いわゆる中庸(ほど良い・ちょうど良い具合)の徳について

 中々に考えて居られる良い内容だと思います。以前に比べるとその考え方に格段の進歩の跡が窺えるのは小生としても嬉しい限りです。要するに何事であれ、万物の霊長たる人間は日用の学として(孫子に代表される)兵法を学び物事をよく考える習慣を養うことが肝要であります。

 折角、考えるという天賦の才を与えられながら、我欲が邪魔をして素直に物を見ることができずに、感情や面子、意地や主義主張などに囚われたり、つまらないゲームに入れ込んだり、見栄や外見的なことを追い求めたり、上っ面だけの流行に心を奪われたり、面白ければ善しとするテレビの低級なバラエティー番組などに酔い痴れたりするだけでは人的資源の大いなる無駄遣いであります。

 物事の実相を見極めようとする姿勢を放棄するのであれば、人間とは名ばかりで、実質的には犬や猫と何ら変わりありません。その意味ではまさに外は人間の皮、内は鬼畜と言わざるを得ません。

 つまりは、行動する人がいわゆる中庸(ほど良い・ちょうど良い具合)を失っているということであります。言い換えれば、何事も適度を超えたり、適度に及ばなかったりすれば悪となり醜となるということです。この中庸なるものは、一見、簡単そうでありますが、実は、中々に難しいものであります。

 例えば、教育とは名ばかりの偏差値優先の学校(進学塾)教育を受けただけでなぜか一人前の人間と看做(みな)され(言わば無免許運転の状態で)社会の荒波に放り出される日本の若者達。

 そのような若者に対して「人生とは何か、生きるとは何か」をキチンと提示できない中高年の不甲斐なさ、否むしろ、その意味では若者と全く同次元のレベルであることすら気付かず、自分は立派に完成した大人と妄想しつつ、その実は、ただ右往左往するだけの哀れさは、まさに上記の一点に起因するものと断ぜざるを得ません。

 もとより、主体性を持ち、自分の頭を使い、物事を真剣に考え、自分に打ち克ち、いわゆる健気に生きている人も当然おられます。しかし、それが大勢・主流であるかと言えば必ずしもそうとは言い切れないところに現代日本の不幸があります。

 はたまた、人の世というものは、昨年を象徴する「偽」の文字を引くまでまもなく、(表はともかく裏に回れば)政・官・民を問わず、あたかも悪貨が良貨を駆逐するが如く、「真」は覆い隠されて「偽」が蔓延(はびこ)り、曲学阿世の徒が横行するのが常なのであります。

 であるならば、いっそのこと我が身もその「偽」の渦中に投じ、面白おかしく世渡りしたいとの誘惑に駆られるのもまた人情です。

 とは言え、自己の「有限にして朝露の如き儚い生命」を思えば、日々、生き甲斐を感じ、自己を燃焼させて悔い無きものに身を投じ、人生の質を高め、人生を完うしたいとの願いが辛(かろ)うじてその誘惑を振り切っているとも言えます。

 が、しかし、それでも中庸のコツを会得して常に実践し得る人は少ないということです。なぜ難しいのかと言えば、人間本来の性たる欲望をコントロールすることに他ならないからであります。

 逆に言えば、そのゆえにこそ、人の世は、裏に回れば「真」が隠されて「偽」が蔓延(はびこ)り、曲学阿世の徒が横行し、良貨が悪貨を駆逐するがごとき状況を呈するのであり、善悪の問題ではないのです。

 要するに、人である以上、常にその立場に立つ可能性を秘めているのであり、そのゆえに、他人の適切な対処には素直に『有り難い(めったに無いこと)』と感謝し、不適切な対処をされても(他人の人間的弱さを推し量り)むやみに責めないことであります。


二、中庸のコツは如何にして学び得るのか

 肝要なことは、人の世のそのような本質的構造をキチンと弁(わきま)え、常に、適切な準備と対処を以て騙されないようにすること、もしくは失敗しないように万全の策を講ずることであります。「転ばぬ先の杖」、それが兵法の兵法たる所以(ゆえん)であります。

 そのゆえに、仮に不覚を取り騙された、はたまた失敗したとしても、それは(心構えとしては)騙した相手を褒めるべきであり、失敗した自分の未熟さを責めるべであります。そこにこそ無限の成長の原動力があると私は思います。なぜならば、人間にとって失敗は付き物であり、失敗を無くすことなど不可能だからであります。

 その意味で失敗は、(致命傷にならない限り)恐れるに足らずであり、見方を変えれば、進歩発展のための教材は無限にあるということです。これが兵法的な立場です。

 その意味で中庸(ほど良い・ちょうど良い具合)とは、単に量的な中間の意ではなく、あくまでも状況によって定まるものであり、その判断にはいわゆる知性(問題を解決する知的な能力の意)が要求されのであります。

 その「知性」を養うためには、日用の学として(孫子に代表される)兵法を学び、物事をよく考える習慣を養うことであります。

 とりわけ、その考え方がいわゆる筋の通った考え方に基づいているか否かを(自分の頭で)考えることは極めて重要です。日々のこの小さな習慣は、光陰矢のごとき歳月とともに必ずや大きな力になることは疑いようもありません。


 その意味で貴兄の結論たる、『向上心を持って、多くの知識を吸収するとともに、大いに悩み、考え、それを経験に結びつけ、日常のいろいろな場面や状況において遭遇する問題に対し、最適の答えを自らが出す、その責任を自分で負うということだと考えました。人生ゲームを楽しめるかどうかは自分次第。不得意技も少しずつ克服しながら、前を向いて歩いていきたいと思います』は、まさに我が意を得たものがあり、方向性としては「善し」とすべきものであります。

 但し、厳しく言えば、(決心・決意なども含め)人間の事情などすぐに変わるものです。そのゆえに、決心・決意、もくしは一時の情熱などに頼ることなく、今、できることは素直に、即、実践し、言葉でなく事実をもって語る姿勢が肝要であります。

 彼の孔子は『古の者(人)の言を出ださざるは、躬(み)の逮(およ)ばざらんことを恥ずれなり」<里仁篇>と論じています。口は重い方が良い、敏捷な実践こそ重要だ、の意でありますが、裏を返せば、言葉というものは実の伴わない放言になり易いことを言うものです。

 また、見方を変えて言えば、次のようにも言うこともできます。

 かつて中国や日本では、いわゆる占術・呪術的兵法(戦争をすべて人為的努力の範疇で考えようとせず、亀卜や占星術などの神秘的手段によって敵味方の将来を占おうとする立場)が主流の座を占めていた時代がありました。それと対極の位置にあるものがいわゆる権謀的兵法(戦いの勝敗を決する主要因は、呪術や迷信ではなく人の和や権謀といった人為的努力にあるとする立場)であります。

 孫子兵法はもとより後者の立場であり、その合理的思考ゆえに今日においても尚、処世の智慧袋として珍重されております。一方、「占術的・呪術的兵法」はその怪しげな神秘主義ゆえに愚者の迷信として(時代の進展とともに)否定され葬り去られて来ました。

 今日、我々も、そのような占術的・呪術的兵法に対しては、実に馬鹿げた思想だと一笑に付すのが通例であります。しかし、兵法を個々人一身のものとして捉えた場合、我々もまた多分に「占術的・呪術的兵法」の愚行を平然と犯している者と言わざるを得ません。

 その典型例がいわゆる神社仏閣などの「お守り」であります。が、しかし、「お守り」などの他愛ないものはともあれ、我々の実生活に極めて重大な結果を招来する、まさに占術的・呪術的兵法が実に平然と重用されているという現実は看過されないところであります。

 即ち、(今できるのに、あるいは今できているのに)あれやこれやの屁理屈をつけて、結局、やらない、やろうとしない、いつでもできると高を括って、ことを先送りするだけのありふれた日常の光景であります。

 吾人が、権謀的兵法(戦いの勝敗を決する主要因は、呪術や迷信ではなく人の和や権謀といった人為的努力にあるとする立場)の代表たる孫子を学ぶ所以であります。


三、「なぜ武術的空手を稽古すると充実感が違うのか」について


 これを空手の型に限定して言えば次のように解せられます。

(1)本来、歴史的・文化的遺産たる空手の型は、ただ無意味に形(外形)だけが存在するのではなく、個々の型の一々の所作に武術的な思想と技法が秘められているものであります。ただ、それなりの理由から、その意味内容が外部から見て簡単に推測できないように組み立てられているのであります。

 その意味内容を伝えるのがいわゆる口伝であり、それを聞けば「なるほどそうゆう意味か」と深く首肯し、古人の知恵に納得せざるを得ないのでありますが、我見が強すぎてそれを聞かない者、聞いても理解する能力の無い者は、型を見てもまさにチンプンカンプンか、もしくは自己の限定的了見でその内容を勝手に想像し推測するしかないのです。

 もとより、この想像的推測による見解の中には、必ずしも的外れとは言い難いものものありますが、総じて言えばその殆どは、いわゆる牽強付会、もしくは「群盲、像を評す」類のものと言わざるを得ません。余談ながら、このような「偽」の解釈が、あたかも「真」なるものの如く装いを凝らし、世に横行するのはこれまた人の世の常であります。


(2)それはさておき、ここで問題なのは、そのゆえに、どのように所作すれば(型の意味内容を含めた)その型の正確な所作となるのかが分からないということです。

 言い換えれば、型の形(外形)はもとより分っていても、それをどのように演武すれば型本来の意味を込めての稽古となるのか、あるいは徒手体操的な型の演武ではなく、武術としての型を稽古するにはどうすれば良いのか、ということを(古人の知恵たる型の意味を知らないため)限定的な自己の了見をもって考え、模索せざるを得ないのであります。

 とは言え、いくら逆立ちしても、肝心要の個々の型の所作の意味が分らなければ、それを用いての分解組手も分らず、さらなる応用への展開も分らず、従って型の演武も正鵠(的)を射たものとならないのは蓋(けだ)し当然のことであります。

 つまるところ、このような人達にとって空手の型とは、(事実としては)単に徒手体操的な動きを組み合わせたものという理解の域を超えないのでありますが、その一方において「空手は武術なり、それなりの意味が必ずあるはずだ」との拭い難い観念・思想を抱いており、それに強く拘泥しているところに自ずからジレンマが生じてくるのであります。

 そのゆえに、このような立場の人達が(他人の目を意識して)あたかも型に魂が入っているかのように見せるべく演武するとすれば、概ね次の二つに分類されます


@ 型として稽古する以上(運動量という意味で)こじんまりした小さな動きより、大きく派手に動いた方が稽古になるとばかり、型本来の形(基本)を崩してむやみやたらに勇壮活発に所作するパターン。

A これに対し『いやいや、型には深遠な意味があるのだから型本来の形(きほん)を崩すなどとんでもない、一点一画も空(あだ)や疎かにすべきものに非ず』とばかり忠実に型の順序をなぞるのは良いが、あまりにも形式的で空疎ゆえに自ずから勢いが欠落し、あたかも舞踊の如くして文字通りの死んだ型と化するパターン。


 敢て論ずるまでもありませんが、中庸という意味合いからすれば(上記の二例は)明らかに適度を超え、また適度に及ばざるものということになります。ゆえに、(スポーツとしては評価され美しいのでしょうが)型本来の稽古という意味合いからすれ醜悪であり、「木に登って魚を求める」がごとき愚行と言わざるを得ません。

 型に魂を吹き込もうとしている意図は善しとしても、目的と手段が不一致ゆえに、結局は、「仏作って魂入れず」の状態にならざるを得ないのです。

 これに対し、「なぜ古武術的空手を稽古すると充実感が違うのか」と言えば、個々の型の一々の所作の武術的な思想と技法をキチンと理解し、別途、それに基づいての分解組手を錬磨し、さらなる応用技への展開を稽古し、そのことを踏まえて、型の一々の所作の意味を思考しつつ型を稽古するからに他なりません。

 言い換えれば、上記した如きの単なる徒手体操的な動きに比べ、(当然のことながら)心身はもとより、頭もフル回転せざるを得ないからであります。

 もとより稽古する人の力量によって上手下手はありますが、やり方においては行き過ぎ、後れず、まさに「適度である」ということであります。つまりは「中庸の徳」を以て稽古を行うので心身、頭脳ともに爽快になり充実感に溢れるということです。

 中・高・大学生ならば前者の稽古法で十分でしょうが、いやしく物を考える力のある社会人たる大人は後者のごとき稽古法が最適と断言できます。爽快感と充実感を以て心身を鍛えるのみならず、処世の術たる兵法的思考を併せて磨くことができるからであります。貴兄の益々の御精武を祈念申し上げます。

 第三回 武術的思想とスポーツ的思想の違いの具体例2008.5.1
<質問>

 「武術的な思想」と、「スポーツ的な思想」は似ているようでもあり、違っているようでもあり良く分かりません。具体的な違いはどこにあるのでしょうか。


<回答>

 かつて筆者はある方(仮にF氏としておきます)と下記に述べるようなやり取りをしたことがあります。この事例は武術的思想とスポーツ的思想の違いを知る上での好例と思いますので敢えて再掲させて頂きます。

一、F氏の発言
 (いわゆる観空小の棒取りの所作について)自分はあれは立派な「棒捕り」動作として稽古しておりますが…。確かに、琉球古武道を何十年と稽古している管理人さんが棒、自分が素手なら棒の奪取など不可能だと考えます。

 ですが、相手のレベルが低ければ十分に可能だとは考えますが。たとえ、成功確率は低くても、棒捕り動作は稽古すべきだと考えますが間違っていますでしょうか?


二、上記に関する筆者の回答

 私はまさにそこにFさんの武道観が「一事が万事」の形で集約されていると思います。なぜそう言えるのかという理由をまず述べさせて頂きます。


(1)そもそも武術は「弱者」が「強者」にいかに対処するかの方法なのです。従って、武術の技というものは、弱者がやっても理論的にはその通りに使えるものであり、強者には通用しないが弱者には通用するというものではありません。

 つまり、Fさんの言われている「琉球古武道を何十年と稽古している管理人さんが棒、自分が素手なら棒の奪取など不可能だと考えます」という性質のものではなくて、術に嵌(はま)れば筆者もFさんに棒を取られてしまうものなのです。

 言い換えれば、相手が強ければ取れないが、弱ければ取れるというのはいわゆる「力比べ」であり武術の真意では無いのです。

 そこがスポーツと武術が根本的に異なるところなのです。スポーツは基本的に「力比べ」なのです。スポーツが力比べであるということはオリンピックが若人の活躍の場であり、格技などでは体重制が採用されていることからみても明らかでしょう。

 逆に言えば、彼の桶狭間の合戦において劣勢の織田信長が多勢の今川義元と真正面から「力比べ」をやるかと言えば、やりません。やらないのは理の当然なのです。一国の存亡や人命の懸かった合戦はスポーツではないからです。


(2)ここで重要なことは、その武術の技を誰しもが同じ程度に使いこなせるのか、という問題であります。もとより誰しもが使いこせるように稽古するわけでありますが、その通りに行かない場合も多々あるのです。だからといってその理論が間違っているというわけではなく、それはあくまでも個々人の力量差の問題なのです。

 言い換えれば、(人間の資質は十人十色・百人百様ゆえに)ある人は限りなく武術の理論に近づけるでしょうが、ある人は理論や理屈は十分わかっていても様々な事情から未熟なままで終るということにもなるのです。一般的には前者が少数派で後者が多数派となります。

 このゆえに、浅薄な人は、たとえ目の前にダイヤモンド(素晴らしい武術的理論)が転がっていても、ともすれば単なる石ころと見誤ったり、逆に慧眼の士は、多くの人が単なる石ころと見ていても、紛れもないダイヤモンドと見抜く場合があるわけです。

 従って、もしそれが(武術的理論として)真実であるならば相手がたとえ小学生であっても膝を屈して学ぶべきなのです。三国志の英雄・劉備が白皙の青年孔明を軍師として三顧の礼で迎えた所以(ゆえん)であります。ともあれ、武術の理論とはそうゆうものなのです。

 以上の前提を踏まえ、あくまでも武術の理論として棒取りの技法について解説致します。


(3)Fさんの棒取りは、(Fさんの御説明の限りでは、また私が以前から承知している範囲でも同じですが、いわゆる観空小の棒取りと称されている箇所の解釈は)相手の打ち下す棒を真正面から素手で受けるというものです。

 もちろん、その弱点対策としてFさんも、「甲は棒に充分な加速度がつく前に飛び込んで」と対処されております。しかし、相手の上段打ちの攻撃線を外しているわけではありません。これはお認めになると思います。言い換えれば、(棒という)相手の強力な攻撃を真正面から素手で受けているということになります。

 となれば、「力比べ」の問題で強い打ちは脳天に食らうが、弱い打ちは受けられるということになります。ここにFさんの言われた『琉球古武道を何十年と稽古している管理人さんが棒、自分が素手なら棒の奪取など不可能だと考えます。ですが、相手のレベルが低ければ十分に可能だとは考えます』という理由があるのだと思います。


(4)ですから武術的には、まず「捌き」を使って棒の上段打ちの攻撃線から我が身を外すという所作が要求されるのです。もとより、そこには間合いに関するいわゆる見切りの問題が発生するのですがそれは当該問題の趣旨を離れるのでここでは論じません。

 なぜそうするかと言えば、(当たり前のことですが)相手が強ければ受け損ねて(おそらく手は骨折する可能性が大です)棒の直撃を脳天に食うからであり、また相手が弱くても受け損なわないという保証はどこにも無いからであります。

 仮に、これが棒ではなく日本刀であるとすればどうでしょう。肉を切ることを本来の目的として作られた白刃の下に我が肉体を無防備で晒すでしょうか。ゆえに、理論的には(相手が熟達者であろうと未熟者であろうと)その刃筋から我が身を外すことは蓋(けだ)し当然のことであります。

 蛇足ながら、次のような反論も予想されます。曰く「日本刀なら当然に外しすます。しかし、棒なら外す必要はない。いわんや拳足においてをや」と。

 しかし、スポーツ競技としてのボクシングやキックボクシング、はたまたいわゆるフルコン空手などの場合はいざ知らず、平素、武術であることを標榜している空手においては、「相手の手足は剣と思え」の格言に従い、攻撃線を外すという発想は当然のことであります。

 しかし、F氏はその当然のことを考慮しないと明言されている。つまりは、日本刀の場合は外すが、刃物でない棒や拳足の場合は外す必要がないということになり、通常、拳足の動きと武器の動きを一体のものと見なして稽古する武術の理論から言えば、実に矛盾の極みであり、奇妙奇天烈な論理と言うことになります。

 これでは、「空手は武術なり」は、単に口先だけの建前に過ぎず、その実はボクシングやキックボクシング、はたまた、いわゆるフルコン空手と同じ発想と言わざるを得ません。スポーツ競技という観点から言えば、それはそれで良いのでしょうが、F氏の提示されている武術的稽古の意味合いから言えば「空手は武術なり」とは御世辞にも言えないということです。


(5)ゆえに、強いもの(この場合は振り下ろしてくる棒の意)とは正面きって戦わないという趣旨からすれば、相手の棒を生身の肉体をもって直接受けることは(武術的意味合いから見て)適切ではありません(生身の肉体より棒の方が当然、強いからです)。

 また受けには、末端の手首付近を受ける場合もありますが、その技の起こる大本の肩付近を押さえる受けもあります。つまり技の起こる根本を押さえるという技法です。

 その意味で、ここでは上記した要領で捌きつつ、相手の右腕の肘付近を我の右腕で受けます。こうなると「棒対肉体」の対決ではなく、空手同様「肉体対肉体」の対決となるのみならず、棒の振り下ろす遠心力が発生する中心付近を押さえるので、直接に棒を掴むよりもあらゆる意味で効果的なのです。比喩的に言えば、台風の目に入れば暴風雨の被害を受けないということでしょうか。


(6)次に棒取りですが、Fさんは「身体を大きく左回転、両手を左に捻り、相手の棒を奪取しつつ投げる」と言われておりますが、(その前に、つまり棒を両掌で受けられ瞬間に)相手も棒を取られまいとして力を入れるのは当然のことであり、結局は力と力の争いとなってしまいます。
 
 Fさんは合気道的技術が優れておられるようですので、そのような心配は杞憂でしょうが、棒取りの解説を聞く限りでは、一般的にそうゆう状況になるということであります。

 このような場合、一般的には相手の顔面を一撃して虚をつくり(目潰し)、相手がひるんだ隙に棒を奪取されるのでしょうが、しかし、それは、あくまでも力比べの結果として(已むを得ずに)そのような臨機応変の処置を取らざるを得ないということであり、力比べが前提にあることは変わりありません。

 従って、ここでは、まず相手の棒を持つ右腕の逆を極めます。やり方の詳細は論じませんが、要するに、右手は棒、左手は相手の肘を支え、右を下げて左を挙げるのです。

 実はこれがパッサイ小にある右手を下げ、左手を挙げる所作の意味なのです。逆に言えば、型とはその技法の代表的は部分を象徴的に表現しているものなのです。

 ゆえに、その所作が棒取りの技法であると聞いたからといって、外形的なその部分の所作から想像して、単純に相手の正面で棒を受け止めるということにはならないのです。

 そもそも、型における技法の秘匿性とその解釈は、どの型であれその外形から簡単に推察されるほど単純なものではなく、底の浅いものでもないのです。まさに先人の叡智がそこに結集しているといっても過言ではありません。

 ただし、観空(小)のごときやり方が必ずしも有効でないとは言い切れません。ただ、そのようなやり方は、最悪の場合、あるいは已むを得ない事態になれば、誰でもが自然にそうするであろうことは容易に想像されます。

 それをもって敢て、武術的技法なりと喧伝するには聊(いささ)か苦しいものがあるということです。早い話が日本刀を持った相手と死に物狂いで格闘し、気が付いたら相手の白刃を素手で掴んでいたなどはその典型例です。

 しかし、だからと言って、いざとなれば自然に出てくるそのような動きを、敢て武術的技法と称して稽古する必要はありません。武術とは、あくまでも相手に対処する理論的に最善の方法は追究するものなのです。


(7)前記により相手の体は嫌でも浮き上がります。相手のその虚に乗じ、我は左手で棒の中柄を掴み、右手と併せて棒を時計回りに一回転させると(相手は右手が上、左手が下で十字に交差してここでも逆を取られますので)相手は左前方向に崩れるか、それが嫌なら棒を離すしかない状態になります。

 我はそのようにして難なく奪取した棒をそのままの回転を止めずに上段に振りかぶり、相手の上段を打つのです。

 実は、この最後の両腕を逆に極める所作は那覇手の型「セーパイ」の最後にある投げの分解と同じです。要するにセーパイと、この棒取りの逆の原理は同じなのです。徒手でやるか、棒でやるかの違いだけなのです。

 空手を理解するためには、首里手・泊手のみならず那覇手も学ぶことも重要であり、それらと表裏一体の関係にある琉球古武道を学ぶことはさらに重要な所以であります。

 因みに、然(しか)らば、棒を素手で受けることは不可なのかと言えば、必ずしもそうではありません。棒の上段や中段の突きに対しは、開掌や前腕で受け流したり、掴んだりすることはもとより可能です。パッサイ小やゴジュウシホウの型にはそのような技法が示されております。

 ただ、その場合と雖も、あくまでも相手の攻撃線を外しつつの所作であることはもとより論ずるまでもありません。

 第二回 武術とスポーツとの本質的な違いについて2008.5.1
<質問>

 武術とスポーツの違うところは、武術とは、その「知的」なところでも汗を流し涙を流し血を流せと言われているように思います。

 逆に、初めからルールありきのスポーツというものは、(ルール無き武術のごとく)無から有を生じさせる創造(クリエーション)の努力は最初から免除されているものと思います。言い換えれば、ルールを逸脱して対処することは許されていないということであります。

 しかし、武術の方は、(不確実性と偶然の支配する世界を見通すべく)ありったけの知力を振り絞って脳を使い、あらゆることを総合して適切に対処しなければ、己の死はもとより言うに及ばず、家族や友人たちとの利害をも含めて多大な影響を及ぼすことになります。

 そのゆえに、スポーツ選手とか言ってみても、結局のところ、例えば民事や刑事の裁判などの実際の紛議紛争になってくると精神的に大変脆(もろ)いところを露呈してスポーツ選手らしからぬ惨状を顕(あら)わにすることになってきます。

 これこそまさにスポーツはあくまで、スポーツであってそれ以上でもそれ以下でもないと思うところであり、いわゆるスポーツ・バカという言葉が存在する由縁(ゆえん)でもあります。

 しかし、武術家は、何が起こってもそれなりに対処して血路を切り開いている例が多いと思います。本当に武術というものは、(その意味での)知的な分野を肉体と同時に練磨しなければならないと思います。ここが、武術とスポーツの似て非なるところであると思いますがいかがでしょうか。


<回答>

 孫子はもとより常在戦場(常に戦場にありの意)の人であり、その意味では常に死と隣り合わせにいた人であります。

 また彼の説く兵書「孫子」は戦いの象徴的事象たる戦争をテーマにその普遍的原理原則の要点を総括するものであります。言い換えれば、こと戦いという事象に関しては、小から大に至るまですべて孫子に貫かれぬものは無いということになります。

 然(しか)らば、我々個々人の人生は常在戦場ではないのかと言えば、然(さ)に非ずであります。例えば、日常的な病気・怪我・事故などは言わずもがなのこと、天災たる風水害、はたまた15万人以上の死者を出したインド洋津波の例を出すまでもなく、我々もまた孫子と同じく明日をも知れぬ命を生きている者であります。

 言い換えれば、好むと好まざるとに関わらず、人生は(命が懸かっていると言う意味での)実戦なのです。つまり孫子も我々個々人もその条件と立場こそ違えども、まさに命を懸けて生きているという意味では同次元であり、何ら遜色はありません。その意識にさえ立てば我々もまた常在戦場の人なのです。

 余談ながら、現代人の多くはそもそも自分の生きていること自体を忘れてしまっている、と言わざるを得ません。もとより、知識では理解しておりますが肝心の体得という意味では忘却しているということです。

 見方を変えれば、まさに傲慢そのものの生き方であると断ぜざるを得ません。このような人々にとって、自分の真の人生はブラウン管などで活躍する「ヨン様」やスポーツ選手、はたまたタレントなどの生き様の中にあると錯覚し、バーチャルな世界に我が身を投影させ虚しく夕日を送っているようです。

 それはさておき、私が孫子の勉強を勧めるのはまさに上記したごときの理由であり、逆に言えば、いかに生きるかを真摯に追究していくとおのずから孫子に突き当たらざるを得ないということであります。

 とは言え、孫子は全ての戦いの事象を総括するものでありますから、おのずから抽象的な理論と成らざるを得ません。これを補完すると言う意味で、やはり古の実戦を踏まえて構成された具象的な武術を活用することが重要とななるのであります。すなわち武術は、ルールなき実戦とは何かをコンパクトに擬似体験できる優れものということであります。

 その意味で孫子と武術は極めて相似形であり暗合しているところが多いということであります。たとえば古伝空手や琉球古武術の術理はまさに孫子の曰う奇正・虚実・衆寡・強弱の変化があるということであります。

 言い換えれば、武術を稽古することは人生の処し方を体で学ぶということであります。なぜならば、武術の想定する場面は人生と同じで常に何でも有りだからであります。そのような局面においていかに身を処すか、それを学ぶのが武術を稽古する真の目的です。

 逆に言えば、ボクシングの選手は試合の日時が決まれば、それに拘束され、その日にそのリングで戦わなければならず、相撲も土俵で戦うことが大前提であり土俵外での勝負などもとよりあり得ません。なおかつ、スポーツは、勝負に負けても命を取られるわけではありません。その意味で、スポーツ選手は明日も明後日も、来月も来年もあるわけです。そのゆえに競技が継続され記録が話題となるのです。

 しかし、武術の想定する世界(広く言えばこの世における森羅万象)にはそのようなものは一切ありません。あるわけがないのです。そもそも人生とは、いわゆる生・老・病・死の何でも有りの非情な世界だからであります。 

 それが御質問者さまの言う『ルールのあるスポーツは、与えられたルールを守るのが主務であり、それを逸脱しての知的な努力は必要とされていない』であり、従って『ルールがきちんと最初に整えられているスポーツというものは、無から有を生じさせる創造(クリエーション)の努力は最初から免除されている』の意と解されます。

 ともあれ、スポーツ隆盛の現代社会では何かと誤解されやすい武術(古伝空手・琉球古武術)でありますが、かつての武士がそうであったように孫子と武術を併修することは(孫子を体得する上で)極めて有効な方法であることは間違いありません。

 とりわけ、古伝空手・琉球古武術は、孫子兵法をもって思想的根幹とする中国武術に由来するものゆえに、(少なくとも社会人たる者が)これを学ぶことは単なるスポーツ空手を学ぶよりは遥かに有益であることは論を俟ちません。

 第一回 『不敗の態勢』について2004.10.23
一、不敗の態勢とは

 孫子は「不敗の態勢」について『昔(いにしえ)の善く戦う者は、先ず勝つ可からざるを為して、以て敵の勝つ可きを待つ』<第四篇 形>と論じています。
 「善く戦う者」とは、戦いに巧みな者の意。「勝つ可からざる」とは、敵が(我の防禦の態勢によって)我に勝つことができないの意。
 「先ず…為して」とは、(善く戦う者が)己の態勢を先ずつくることを言います。「敵の勝つ可きを待つ」とは、(我が攻撃によって)敵に勝つことができる機会を待つの意。

 すなわち、上記の言は「いにしえの善く戦う者は、敵が(我の防禦の態勢によって)我に勝つことができない」態勢をまずつくり、(我が攻撃によって)敵に勝つことができる機会を待つ」の意となります。つまり「不敗の態勢」とは、敵が(我の防禦の態勢によって)我に勝つことができない態勢を曰うものであります。

 とは言え、孫子兵法はあくまでも問題解決の普遍的思考、あるいは原理・原則を論ずるものでありますから、ここで曰う「不敗の態勢」もおのずから極めて抽象的な理論ということになります。

 そのゆえにこそ、孫子兵法は何にでも適用できるというわけありますが、逆に言えば、この普遍的な原理・原則を個々人の置かれた状況や立場という特殊にブレイクダウンして応用することは高度な抽象的能力を要求されるということになります。孫子が難解とされる所以であります。

 このホームページの目的の一つは、そのように抽象的で難解とされる孫子兵法を具体的に理解する方法として、言わば具象的な武術的思想としての古武術の術理を紹介することにあります。戦いにおける個人技たる武術も、集団戦における用兵術たる兵法もその規模の大小こそ違え、こと実戦における武術的思想という意味においてはまさにその軌を一にするものであります。

「治にいて乱を忘れず」はもとより兵法の要訣でありますが、そのゆえにこそ平和な時代にあっても実戦を簡潔にシミュレーションする雛形として古武術が尊重され、広く稽古されてきたのであります。逆に言えば、具象的な武術的思想たる古武術の術理を学ぶことは、ことの性質上、孫子兵法を具体的に理解するための近道ともなるわけであります。

 さらに言えば、みずから身をもって汗水たらして古武術を稽古することはおのずから兵法の根源たる武道心を感得せしめ、かつ武術的思想の何たるかを肌身で直感することができるという効用があります。
 そのような意味で普段着感覚で古武術を学ぶには古伝空手・琉球古武術が最適であり、とりわけ孫子兵法におけるいわゆる陰陽の弁証法的思考を学ぶにはまさにこれに勝るものはないということであります。

 逆に言えば、陰陽の動きと捌きこそまさに古伝空手の要訣ということでありますが、これも偏(ひとえ)に、その祖形たる中国武術に易経の陰陽思想、あるいは老子、孫子兵法など兵家の弁証法的思考が色濃く流れていたからに他ならないのであります。

 我々が「生きる」ということは、先の阪神大震災や今回の新潟中越地震、はたまた近年頻発する大型台風による風水害などの例を持ち出すまでもなく行往座臥、生死を懸けた戦いであり、まさに実戦そのものであります。その意味において古武道は、ルールがあって審判が居り、かつ命の懸かっていないスポーツとは似て非なるものであります。

 生死を懸けた実戦における武術的思想としての孫子兵法、それをコンパクトにシミュレーションする雛形としての古伝空手・琉球古武術を勧める所以であります。

二、古伝空手における「不敗の態勢」の事例

 相手が右上段の追い突きで攻撃してきたとします。我はこれを相手の右外側に捌きつつ接近し、猫足立で相手の肘上を上段受けします。この形になれば、相手はその左手・左足・右足・右手を封じられ、かつ死角に立たれるため反撃が不可能となります。言わば、相対したとき互角であった力関係が一瞬にして圧倒的な優勢に転ずるというわけであります。

 因みに、相手の肘上を受けるのは相手の肘打ちを防ぐ意味であり、もし手首を受ければ相手の肘打ちが待っていましたとばかり襲ってくるというわけであります。
 また我の極めの縦拳を出す時、右上段受けをそのままの形で残しておくのは、相手の反撃に備えるためであります。スポーツ空手では、受けて反撃するときに、受けた手を引き手として腰に取るのが一般的ですが、実戦においてそれは極めて危険な行為です。

 受けた手を外すことは、我の有利を不利に、相手の不利を有利に変えることに他ならず、相手がその自由になった手を用いてそのまま反撃に出てくることは理の当然だからです。「ハイ待って、分かれて分かれて」などと間に入る審判がいない実戦においては、自己の有利を放棄することなど有り得る訳がありません。

 たとえば、極秘で「金のなる木」を見つけた人が、スポーツ空手の競技のごとく審判の指示に従って、その有利な権利をむざむざ放棄したりするであろうか。特殊な人はともかくとして普通の人ならするわけが無い。実戦とはそうゆうものなのである。

 競技を安全に、分かり易く、かつエキサイティングに進行させることを至上とするスポーツが実戦とは似て非なる所以(ゆえん)であります。武術的思想においては、安全も分かり易さもエキサイティングもおよそ無縁の要素なのです。生命・身体・財産などの危機から身を守り、「無事これ名馬」をモットーに普段通りの生活を送ることを無上の幸せとするのが武術の面目なのです。

 それはさておき、受けた時の形は猫足立で、かつ極力相手に密着していることが必要です。もし前屈立であれば、たとえ相手の右斜め前に捌いても(前屈立という立ち方の特徴からして)どうしても彼我の間に隙間が生じるので、おのずから相手に反撃を許すスペースを提供することになり適切ではありません。
 ともあれ、上記のごとき形をつくることにより、相手が(我の防禦の態勢によって)我に勝つことができない態勢、すなわち「不敗の態勢」となるのであります。

 蛇足ながら、この「不敗の態勢」のあと我はどのように攻撃するのかという問題は、古伝空手とスポーツ空手の違いを画するメルクマールでもあり、かつ『勝ちをはか称る者の民を戦わしむるや、積水をせんじん千仞のたに谿に決するが若きは、形なり』<第四篇 形>、あるいは『故に、善く人を戦わしむるの勢い、円石をせんじん千仞の山に転ずるが如き者は、勢なり』<第五篇 勢>の問題でもありますのでここでは省略し、項を改めて解説することにいたします。
[編集]
CGI-design