「道場生 K氏」からの書き込み
稽古復帰後、いい汗を流させていただきありがとうございます。 やはり、稽古で流す汗はいいです。休んでいた間、筋トレやで登山(冬山はキツイっす)等で汗をかくこともありましたが、何か違う気がします。
うまく表現できないのですが、武道の持つ歴史の重み、そして何より一挙動ごとに深く考えながら動くこと、それゆえ、同じ汗でも充実感が違うのかなと勝手に考えています。
空手を始めて早や25年。不惑の年を迎え、肩の力も少しは抜け、また、違った角度から、そして新鮮な気持ちで稽古できることに喜びを感じています。今後ともご指導よろしくお願いします。
さて、本題ですが、前回質問の回答にございました先生の宿題についてですが、特に得意技的発想についてが、自分にとって一番の欠点であると考えました。
日常に当てはめてみれば、「自分の方が筋が通っている」、「自分の方が実績を上げている」、あるいは「口先だけでなく仕事しろ」等々、思いつくところはたくさんあります。それを堂々と言えるがために努力をする。そんな発想が根底にあります。
言い換えれば、スポーツで相手に勝つために、血と汗と涙を流し努力する。それが美学だ…。ただそこまでの発想です。自己満足の域を出ないといわれても仕方がありません。
もちろん努力を否定しているわけではありません。まずはそれが基本であると思います。
しかし、そのような単純なスポーツ的発想(初歩的発想)では、多くの利害関係が飛び交う複雑怪奇な実社会において、通用しないケースが多いことを、社会人経験を重ねるにつれ、ひしひしと感じています。
だからといって、要領だけの茶坊主的な生き方は、やはり好みません…。
例えれば、山の頂上へ自分の足で登るのと、ロープウェイで登るのでは、まったく味わいや満足感が違いますし、多少困難やリスクの伴う登山の方が克服感があるのは確かです。人生に置きかえてみれば、事なかれ的な生き方では退屈だとも思います。
ではどうするか、月並みですが、向上心を持って、多くの知識を吸収するとともに、大いに悩み、考え、それを経験に結びつけ、日常のいろいろな場面や状況において遭遇する問題に対し、最適の答えを自らが出す、その責任を自分で負うということだと考えました。
「人生意気に感ず」好きな言葉です。人生ゲームを楽しめるかどうかは自分次第。不得意技も少しずつ克服しながら、前を向いて歩いていきたいと思います。
<管理人>からの返信
『日用の学として孫子兵法を学ぶ意義』
一、いわゆる中庸(ほど良い・ちょうど良い具合)の徳について
中々に考えて居られる良い内容だと思います。以前に比べるとその考え方に格段の進歩の跡が窺えるのは小生としても嬉しい限りです。要するに何事であれ、万物の霊長たる人間は日用の学として(孫子に代表される)兵法を学び物事をよく考える習慣を養うことが肝要であります。
折角、考えるという天賦の才を与えられながら、我欲が邪魔をして素直に物を見ることができずに、感情や面子、意地や主義主張などに囚われたり、つまらないゲームに入れ込んだり、見栄や外見的なことを追い求めたり、上っ面だけの流行に心を奪われたり、面白ければ善しとするテレビの低級なバラエティー番組などに酔い痴れたりするだけでは人的資源の大いなる無駄遣いであります。
物事の実相を見極めようとする姿勢を放棄するのであれば、人間とは名ばかりで、実質的には犬や猫と何ら変わりありません。その意味ではまさに外は人間の皮、内は鬼畜と言わざるを得ません。
つまりは、行動する人がいわゆる中庸(ほど良い・ちょうど良い具合)を失っているということであります。言い換えれば、何事も適度を超えたり、適度に及ばなかったりすれば悪となり醜となるということです。この中庸なるものは、一見、簡単そうでありますが、実は、中々に難しいものであります。
例えば、教育とは名ばかりの偏差値優先の学校(進学塾)教育を受けただけでなぜか一人前の人間と看做(みな)され(言わば無免許運転の状態で)社会の荒波に放り出される日本の若者達。
そのような若者に対して「人生とは何か、生きるとは何か」をキチンと提示できない中高年の不甲斐なさ、否むしろ、その意味では若者と全く同次元のレベルであることすら気付かず、自分は立派に完成した大人と妄想しつつ、その実は、ただ右往左往するだけの哀れさは、まさに上記の一点に起因するものと断ぜざるを得ません。
もとより、主体性を持ち、自分の頭を使い、物事を真剣に考え、自分に打ち克ち、いわゆる健気に生きている人も当然おられます。しかし、それが大勢・主流であるかと言えば必ずしもそうとは言い切れないところに現代日本の不幸があります。
はたまた、人の世というものは、昨年を象徴する「偽」の文字を引くまでまもなく、(表はともかく裏に回れば)政・官・民を問わず、あたかも悪貨が良貨を駆逐するが如く、「真」は覆い隠されて「偽」が蔓延(はびこ)り、曲学阿世の徒が横行するのが常なのであります。
であるならば、いっそのこと我が身もその「偽」の渦中に投じ、面白おかしく世渡りしたいとの誘惑に駆られるのもまた人情です。
とは言え、自己の「有限にして朝露の如き儚い生命」を思えば、日々、生き甲斐を感じ、自己を燃焼させて悔い無きものに身を投じ、人生の質を高め、人生を完うしたいとの願いが辛(かろ)うじてその誘惑を振り切っているとも言えます。
が、しかし、それでも中庸のコツを会得して常に実践し得る人は少ないということです。なぜ難しいのかと言えば、人間本来の性たる欲望をコントロールすることに他ならないからであります。
逆に言えば、そのゆえにこそ、人の世は、裏に回れば「真」が隠されて「偽」が蔓延(はびこ)り、曲学阿世の徒が横行し、良貨が悪貨を駆逐するがごとき状況を呈するのであり、善悪の問題ではないのです。
要するに、人である以上、常にその立場に立つ可能性を秘めているのであり、そのゆえに、他人の適切な対処には素直に『有り難い(めったに無いこと)』と感謝し、不適切な対処をされても(他人の人間的弱さを推し量り)むやみに責めないことであります。
二、中庸のコツは如何にして学び得るのか
肝要なことは、人の世のそのような本質的構造をキチンと弁(わきま)え、常に、適切な準備と対処を以て騙されないようにすること、もしくは失敗しないように万全の策を講ずることであります。「転ばぬ先の杖」、それが兵法の兵法たる所以(ゆえん)であります。
そのゆえに、仮に不覚を取り騙された、はたまた失敗したとしても、それは(心構えとしては)騙した相手を褒めるべきであり、失敗した自分の未熟さを責めるべであります。そこにこそ無限の成長の原動力があると私は思います。なぜならば、人間にとって失敗は付き物であり、失敗を無くすことなど不可能だからであります。
その意味で失敗は、(致命傷にならない限り)恐れるに足らずであり、見方を変えれば、進歩発展のための教材は無限にあるということです。これが兵法的な立場です。
その意味で中庸(ほど良い・ちょうど良い具合)とは、単に量的な中間の意ではなく、あくまでも状況によって定まるものであり、その判断にはいわゆる知性(問題を解決する知的な能力の意)が要求されのであります。
その「知性」を養うためには、日用の学として(孫子に代表される)兵法を学び、物事をよく考える習慣を養うことであります。
とりわけ、その考え方がいわゆる筋の通った考え方に基づいているか否かを(自分の頭で)考えることは極めて重要です。日々のこの小さな習慣は、光陰矢のごとき歳月とともに必ずや大きな力になることは疑いようもありません。
その意味で貴兄の結論たる、『向上心を持って、多くの知識を吸収するとともに、大いに悩み、考え、それを経験に結びつけ、日常のいろいろな場面や状況において遭遇する問題に対し、最適の答えを自らが出す、その責任を自分で負うということだと考えました。人生ゲームを楽しめるかどうかは自分次第。不得意技も少しずつ克服しながら、前を向いて歩いていきたいと思います』は、まさに我が意を得たものがあり、方向性としては「善し」とすべきものであります。
但し、厳しく言えば、(決心・決意なども含め)人間の事情などすぐに変わるものです。そのゆえに、決心・決意、もくしは一時の情熱などに頼ることなく、今、できることは素直に、即、実践し、言葉でなく事実をもって語る姿勢が肝要であります。
彼の孔子は『古の者(人)の言を出ださざるは、躬(み)の逮(およ)ばざらんことを恥ずれなり」<里仁篇>と論じています。口は重い方が良い、敏捷な実践こそ重要だ、の意でありますが、裏を返せば、言葉というものは実の伴わない放言になり易いことを言うものです。
また、見方を変えて言えば、次のようにも言うこともできます。
かつて中国や日本では、いわゆる占術・呪術的兵法(戦争をすべて人為的努力の範疇で考えようとせず、亀卜や占星術などの神秘的手段によって敵味方の将来を占おうとする立場)が主流の座を占めていた時代がありました。それと対極の位置にあるものがいわゆる権謀的兵法(戦いの勝敗を決する主要因は、呪術や迷信ではなく人の和や権謀といった人為的努力にあるとする立場)であります。
孫子兵法はもとより後者の立場であり、その合理的思考ゆえに今日においても尚、処世の智慧袋として珍重されております。一方、「占術的・呪術的兵法」はその怪しげな神秘主義ゆえに愚者の迷信として(時代の進展とともに)否定され葬り去られて来ました。
今日、我々も、そのような占術的・呪術的兵法に対しては、実に馬鹿げた思想だと一笑に付すのが通例であります。しかし、兵法を個々人一身のものとして捉えた場合、我々もまた多分に「占術的・呪術的兵法」の愚行を平然と犯している者と言わざるを得ません。
その典型例がいわゆる神社仏閣などの「お守り」であります。が、しかし、「お守り」などの他愛ないものはともあれ、我々の実生活に極めて重大な結果を招来する、まさに占術的・呪術的兵法が実に平然と重用されているという現実は看過されないところであります。
即ち、(今できるのに、あるいは今できているのに)あれやこれやの屁理屈をつけて、結局、やらない、やろうとしない、いつでもできると高を括って、ことを先送りするだけのありふれた日常の光景であります。
吾人が、権謀的兵法(戦いの勝敗を決する主要因は、呪術や迷信ではなく人の和や権謀といった人為的努力にあるとする立場)の代表たる孫子を学ぶ所以であります。
三、「なぜ武術的空手を稽古すると充実感が違うのか」について
これを空手の型に限定して言えば次のように解せられます。
(1)本来、歴史的・文化的遺産たる空手の型は、ただ無意味に形(外形)だけが存在するのではなく、個々の型の一々の所作に武術的な思想と技法が秘められているものであります。ただ、それなりの理由から、その意味内容が外部から見て簡単に推測できないように組み立てられているのであります。
その意味内容を伝えるのがいわゆる口伝であり、それを聞けば「なるほどそうゆう意味か」と深く首肯し、古人の知恵に納得せざるを得ないのでありますが、我見が強すぎてそれを聞かない者、聞いても理解する能力の無い者は、型を見てもまさにチンプンカンプンか、もしくは自己の限定的了見でその内容を勝手に想像し推測するしかないのです。
もとより、この想像的推測による見解の中には、必ずしも的外れとは言い難いものものありますが、総じて言えばその殆どは、いわゆる牽強付会、もしくは「群盲、像を評す」類のものと言わざるを得ません。余談ながら、このような「偽」の解釈が、あたかも「真」なるものの如く装いを凝らし、世に横行するのはこれまた人の世の常であります。
(2)それはさておき、ここで問題なのは、そのゆえに、どのように所作すれば(型の意味内容を含めた)その型の正確な所作となるのかが分からないということです。
言い換えれば、型の形(外形)はもとより分っていても、それをどのように演武すれば型本来の意味を込めての稽古となるのか、あるいは徒手体操的な型の演武ではなく、武術としての型を稽古するにはどうすれば良いのか、ということを(古人の知恵たる型の意味を知らないため)限定的な自己の了見をもって考え、模索せざるを得ないのであります。
とは言え、いくら逆立ちしても、肝心要の個々の型の所作の意味が分らなければ、それを用いての分解組手も分らず、さらなる応用への展開も分らず、従って型の演武も正鵠(的)を射たものとならないのは蓋(けだ)し当然のことであります。
つまるところ、このような人達にとって空手の型とは、(事実としては)単に徒手体操的な動きを組み合わせたものという理解の域を超えないのでありますが、その一方において「空手は武術なり、それなりの意味が必ずあるはずだ」との拭い難い観念・思想を抱いており、それに強く拘泥しているところに自ずからジレンマが生じてくるのであります。
そのゆえに、このような立場の人達が(他人の目を意識して)あたかも型に魂が入っているかのように見せるべく演武するとすれば、概ね次の二つに分類されます
@ 型として稽古する以上(運動量という意味で)こじんまりした小さな動きより、大きく派手に動いた方が稽古になるとばかり、型本来の形(基本)を崩してむやみやたらに勇壮活発に所作するパターン。
A これに対し『いやいや、型には深遠な意味があるのだから型本来の形(きほん)を崩すなどとんでもない、一点一画も空(あだ)や疎かにすべきものに非ず』とばかり忠実に型の順序をなぞるのは良いが、あまりにも形式的で空疎ゆえに自ずから勢いが欠落し、あたかも舞踊の如くして文字通りの死んだ型と化するパターン。
敢て論ずるまでもありませんが、中庸という意味合いからすれば(上記の二例は)明らかに適度を超え、また適度に及ばざるものということになります。ゆえに、(スポーツとしては評価され美しいのでしょうが)型本来の稽古という意味合いからすれ醜悪であり、「木に登って魚を求める」がごとき愚行と言わざるを得ません。
型に魂を吹き込もうとしている意図は善しとしても、目的と手段が不一致ゆえに、結局は、「仏作って魂入れず」の状態にならざるを得ないのです。
これに対し、「なぜ古武術的空手を稽古すると充実感が違うのか」と言えば、個々の型の一々の所作の武術的な思想と技法をキチンと理解し、別途、それに基づいての分解組手を錬磨し、さらなる応用技への展開を稽古し、そのことを踏まえて、型の一々の所作の意味を思考しつつ型を稽古するからに他なりません。
言い換えれば、上記した如きの単なる徒手体操的な動きに比べ、(当然のことながら)心身はもとより、頭もフル回転せざるを得ないからであります。
もとより稽古する人の力量によって上手下手はありますが、やり方においては行き過ぎ、後れず、まさに「適度である」ということであります。つまりは「中庸の徳」を以て稽古を行うので心身、頭脳ともに爽快になり充実感に溢れるということです。
中・高・大学生ならば前者の稽古法で十分でしょうが、いやしく物を考える力のある社会人たる大人は後者のごとき稽古法が最適と断言できます。爽快感と充実感を以て心身を鍛えるのみならず、処世の術たる兵法的思考を併せて磨くことができるからであります。貴兄の益々の御精武を祈念申し上げます。
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