第3回 スポーツの勝敗と実戦(現実の戦い)を混同するな2005.5.28
 最近、おや!と思うことがあった。そしてナルホド、そうゆうことであったかと合点がいき、深く感じ入った。きっかけは、5月11日付けの朝日新聞の朝刊紙上で「女子プロレスラーを殴る」「一人はラグビー日本代表」「障害容疑で二人逮捕」の見出しが躍る記事を目にしたことであった。

 それによれば、女子プロレスラーを殴ったとして、トンガ国籍で埼玉工業大学二年のラグビー部員、イオンギ・ビビリ・ヘロトウ・ケイ容疑者(20歳)ら二人が傷害などの疑いで逮捕された。もう一人は同じ大学の一年(18歳)で、ラグビー日本代表であるという。

 二人は5月9日午前0時20分ごろ、東京港区六本木の路上で、プロレスラーの女性(31歳)の顔を殴り、ケガをさせるなどしたという。この女性と一緒にいた別の女性の腰の辺りを触ったことで口論になったという。二人とも酒を飲んでいたらしい。

 この事件にはおまけがついて、そのほとぼりも覚めやらぬ17日、またもや東京・六本木で同じくラグビーの日本代表選手、フィリップ・オライリー容疑者(24歳、三洋電機、ニュージーランド国籍)が高級クラブの店員を殴ったとして逮捕された。一緒にいたルーベン・パーキンソン(32歳)選手も暴れて器物を壊したという。
 連続して起きた日本代表選手による不祥事に日本ラグビー協会の指導力が問われるところであるが、それはさておき、先のトンガ2選手と女子プロレスラーの一件にはとりわけ興味を惹かれた。

 その理由は多分、女子プロレスラーとトンガ人ラガーマンとのストリートファイトという組み合せにあったのであろう。もとより、詳細は不明であるが、事実としては女子プロレスラーが顔を殴られてケガをし、殴ったトンガ選手はそのまま逃走したらしいがなぜか捕まってしまったということである。

 大方の無責任な野次馬的立場からすれば、(新聞報道で知る限り)この異色のストリートファイトにおいて女子プロレスラーが負けて、トンガ選手が勝ったと単純に判断したであろうことは想像するに難くない。昨今、テレビのブラウン管を賑わせているスポーツ格闘技などの勝負観からすれば当然の帰結である。言い換えれば、このストリートファイトがテレビで放映されていなかったくらいの感覚であろう。

 とはいえ、事件がテレビで生中継されたいたわけではないから実際の状況はどうであったのかは定かではない。新聞記事はあくまでもその事実の結果を極めて簡潔に伝えているに過ぎないからである。
 とりわけ、よく分からないのは殴られた女子プロレスラーは反撃したのか、しなかったのか。反撃した上での結果なのか、はたまた何か理由があって反撃しなかったのか、という点である。

 やはりこの事件はかなり話題性が高かったと見えて、日ならずして、テレビの朝のワイドショウに被害者たる件(くだん)の女子プロレスラー氏が出演した。彼女の鼻柱の真中には大きく割れた傷口があり事件の生々しさを伝えていた。

 それによれば、加害者たるトンガ人は女子プロレスラー氏も驚くほどの大男であったらしい。男は彼女を殴った後、得意のダッシュで逃げ近くの飲食店にもぐり込んだところを追いかけてきた彼女達に取り押さえられた、というのが真相らしい。

 さっそくテレビ司会者が(無責任な野次馬的立場の人間が抱いている)一番の疑問点を質問した。「反撃しようと思わなかったのですか」と。彼女が答えて曰く「全く思っていませんでした」「(素人ではないから)やろうと思えばいくらでもできますが、もしそれをやれば私のプロレス人生は終ってしまうからです」と。

 失礼ながら、血の気の多そうなご面相の女子プロレスラー氏から極めて冷静かつ予想外の言葉が飛び出したのには正直驚いた。しかも、女性の大事な顔の真中にパックリと傷口をつけられた当人が平然としてそう言うのである。

 私は深く感動するとともに、この女性のやっていることはいわゆるプロレスであり(その意味では)武道とは直接関係無いが、まさにこの人こそ真の武道家であると心から拍手し、修羅場に対処するその冷静さと強(したた)かさに限りない尊敬の念を禁じ得なかった。まさにプロレス恐るべしという心境であった。

 もとより、プロレスもスポーツでありその意味ではルールによる勝敗はあるのであろうが、重要なことはそのスポーツ(の勝敗)と実戦(現実の戦い)との区別を明確にし、いささかも混同していないということである。

 当たり前のことであるが、スポーツによるルールは勝敗を決するために作られており、当然のことながら勝敗が決すればそれで終るわけである(ただし北朝鮮のサッカーの場合は例外のようであるが)。しかし実戦(たとえば戦争のごとき現実の戦い)は、スポーツのごとく単に勝敗のみで終るわけではなく、殺した人、殺された人はもとよりのことその家族や民衆などを含め、双方に大きな傷跡を残すものなのである。これはストリートファイトにおいても本質的に同じことである。

 たとえば、この女子プロレスラー氏が「売られたケンカは買わねば」と勇ましく反撃して乱闘を演じこれを倒してケガを負わせたとしよう。(スポーツ的勝敗感覚で)勝ったぜ、ざまあ見やがれ、相手から仕掛けてきたのだから私は「正当防衛」だ、と意気揚々としていても実戦(現実の戦い)はスポーツとは異なるのである。

 知らせを聞いて駆けつけたきた警察官に相手の不当性をいくら主張してもケンカ両成敗と判断されるのがオチで、仮に、相手のケガが重ければ障害事件として自分が逮捕されることは必定である。このような場合、一般的には、相手はたちまち被害者に早変わりし、一方的に殴られたと主張するものなのである。もし、運悪く相手が一命を落とせばその将来は失われたも同然である。

 ゆえに孫子は『怒りは以て復(ま)た喜ぶ可(べ)く、慍(いか)りは以て復た悦(よろこ)ぶ可きも、亡国は以て復た存す可からず、死者は以て復た生く可からず。故に明主は之(これ)を慎(つつし)み、良将は之を警(いまし)む。』<第十二篇 火攻>と曰うのである。ことの広狭大小はともあれ、理屈は同じことである。

 つまりスポーツ的勝敗感覚で前後の見境も無くいわゆる実戦に臨むことは、社会的地位・名誉・家庭のある善良な社会人にとってメリットどころかデメリットしか生じないのである。
 まさに、件(くだん)の女子プロレスラー氏の言うがごとく「私のプロレス人生は終ってしまう」ということなのである。これがスポーツのルールによる勝敗と実戦(現実の戦い)との大きな相違なのである。

 ベトナム戦争は30年前に終っていても、いまだに、アメリカ軍によって大量散布された枯葉剤の影響と見られる多くの奇形児が生まれ、放置されたままの無数の地雷やボール爆弾などの不発弾は、ベトナムの人々の平和な暮らしを破壊し続けているのである。

 孫子の有名な巻頭言、『兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり』<第一篇 計>とはまさにこのことを曰うのである。

 因みに、日本ラグビー協会は5月20日の理事会で、この事件を起こして逮捕されたトンガ人の日本代表選手(18歳)に一年間の代表活動停止の処分を下した。飲酒の上とは言え、否、むしろそのゆえにこそ、彼の人間としての心底が曝け出されたということであり、わずかの心得違いのゆえに起きた一瞬の判断ミスによって彼の人生で失ったものは余りに大きいと言わざるを得ない。

 世の中を生きる上においては真理を知ることが極めて重要である。その意味で、スポーツのルールによる勝敗と実戦(現実の戦い)との違いを明確に弁(わきま)えておくことは人間としての知性の問題である。
 もし、「オレはラグビーの日本代表選手だから偉いんだ」と妄想していたとするならば(平和な社会にとって)彼は極めて危険な人物ということになる。

 スポーツのルールによる勝負は、つまるところ娯楽・レジャー・歌舞音曲の類であり、いわゆる実戦(現実の戦い)とは似て非なるものなのである。この区別を弁(わきま)えずそれをあたかもスポーツのごとく錯覚して疑わなければ遅かれ早かれ、第二、第三のトンガ人ラガーマンが生まれることは必定である。
 巷に氾濫するこの手のマンガやスポーツ娯楽雑誌はことさらこの悪しき風潮を喧伝しているようであるが、無垢の若者にこのような危険な思想を鼓舞することは百害あって一利なしである。

 しかし、残念なことに平和ボケした日本人はスポーツと実戦とを混同している向きが多いようである。自分のアタマでものを考えることが不得手な日本人は、とりわけスポーツ雑誌などに溢れているこの種の表現に簡単に洗脳されているようである。

 世界に冠たる優秀民族の日本人も、こと思考力という意味ではまさに彼のマッカーサーが指摘するがごとく「12歳の少年レベル」のものと言わざるを得ない。

 重ねて言うが、いわゆる実戦とはまさにイラクで行われているようなことをいうのであり、それを体験したければフランス外人部隊にでも入ることである。実戦とは殺すかも知れないが、殺されるかも知れないという世界である。ゆえに、そもそも娯楽・レジャーの類のスポーツに実戦など有り得ようはずがないのである。こんな当たり前のことが理解できようであれば知性の欠落を疑われても仕方がない。

 因みに、江戸時代のサムライ社会においてはサムライ同士のケンカは極力避けるべく様々な工夫がなされ、それをキチンと弁(わきま)えているのが心得ある武士として評価された。もとよりケンカ両成敗が武士の法度ではあるが、それよりなにより、(仇討ちの場合を除き)武士が斬り合いで相手を殺したら自分もその場で切腹するのが責任の取り方だったからである。無用な刃傷沙汰を起こしても誰も得をしないというわけである。彼の赤穂事件の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の例を見れば一目瞭然である。

 この時代、武士としてもっとも軽蔑されたのは「ひき逃げ」ならぬ「斬り逃げ」であったと言われている。人を殺しておいて自分だけ逃げるなど武士の風上にも置けぬ見下げ果てた輩ということになり、武士社会から抹殺されたのである。
 要するに、武士社会ではケンカをしても良いが、その場合は相手を殺して自分も切腹するということが不問律であり、それが嫌なら始めからやるな、極力、堪忍するということである。

 因みに、(甲陽軍鑑によれば)武田信玄は、刀を抜かずに素手で殴り合いをした二人の武士に対し、武士にあるまじき不届きな行為として見せしめのため切腹を命じている。

 素手で殴り合いをするのは百姓・町人のやることである。武士ならばなぜ刀を抜いて潔く勝負をしないのか。それが嫌なら、なぜ堪忍しないのか。そのいずれもできず、中途半端に素手で殴りあうなど甚だしく武道不心得の者である。このようなサムライは戦場では臆病な振る舞いをして物の役に立たないであろうし、武道の誉れを競う武田家中には不要の人物である、というのがその理由である。

 ともあれ、件(くだん)の女子プロレスラー氏は、修羅場における一瞬において、自分の人生とトンガ人ラガーマンとの価値を秤に掛け、こんなヤツのために自分の人生を棒に振りたくないと決断したということである。これこそがまさに実戦であり、これこそがまさに真の勇気であることを我々は再認識する必要がある。

 ゆえに、「トンガ人ラガーマンに何か言いたいことがありますか」とのテレビ司会者の問いかけに女子プロレスラー氏は言うのである。

「何のためにわざわざトンガから日本に来てラグビーをしているのか、そこのところを良く考えて欲しい。それが分かれば今回のようなバカなことはできないはずである。もっと自分の人生を大事にして欲しい」と。

 かつて、ベトナム戦争に出かけたアメリカ軍の兵士達は、まずフットボールの試合のような感覚で実戦を経験したという話しがある。しかし、自らの手で人を殺し、戦友が殺される現実を目の当たりにした兵士たちはスポーツと実戦の違いにショックを受け、心に大きな障害を負ったという。

 このトンガ人ラガーマンもまた、ラグビーの試合と実戦は似て非なるものであることを骨身に沁みて理解したはずである。我々もまた、この些細な事件を通してスポーツとは何か、実戦とは何かをしっかりと区別する必要がある。吾人が孫子を学ぶ所以である。

 このことに対する社会一般の認識があやふやなゆえに、それでなくても短絡的な若者の事件が後を絶たないのである。スポーツと実戦は似て非なるものであり、これを混同することは極めて危険なことと知るべきである。今回の女子プロレスラー氏の毅然たる態度を以て我々はその範とすべきである。


 第2回 武術は弱者のためのものである2005.2.20
 最近、女性の護身術について気になる新聞記事(平成17年1月29日・朝日朝刊)がありました。「実技で覚える自己防衛法」と題するものでありますが、その記事の要旨は次のようなものでした。

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 万が一襲われたら、どのように身を守ればいいのでしょうか。全国に略取・誘拐事件は03年で約280件、被害者の6割以上が小学生です。強姦は約2500件にも。 弱者を狙う犯罪の増加で、最近は護身術を学べる格闘技や武道の教室が増え、スポーツ感覚で学ぶ人も多いようです。

 任意団体Aの代表・Y子さんは護身術を色々試しましたが、「何年も修行しないと身につかず、女性に落ち度があるという前提がある」と疑問を持ち、米国で出会った「インパクト」という方法を、公認資格を得て00年から日本で広めています。

 71年に米国女性のレイプ事件をきっかけに生まれたこの自己防衛法は、「模擬暴行」という実際に暴漢役を使った実技が特徴で、急所を蹴るなど武道では反則技になる五つの基本技を教え、プロテクターをつけた男性講師を相手に何度もやって体で覚えるので、習ったその日から使えるということです。

 人数限定の個別指導という形で自治体の要望を受けて子供や中高年にも教えているそうです。Y子さんは、「興味本位やストレス解消の気軽な参加は困る。自己防衛は本来持っている力を引き出して、自分が武器になる真剣勝負の場だからです」と語っています。
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 もとより、この「インパクト」なる自己防衛法は即効的な効果が期待できるものなのでありましょう(世界の約30ヶ所に訓練組織があるそうです)。このようなアメリカ発祥の護身術が到来することはそれなりに喜ばしいことではありますが、反面において「武の国」日本の本来の面目は一体どこに行ってしまったのだろうか、といささか寂しい思いを禁じ得ません。

 彼の福沢諭吉をして「門閥(身分)制度は親の仇でござる」とまで言わしめた武士階級の消滅は、まさに四民平等の自由な社会をもたらし、その解き放たれたパワーが近代日本の発展を突き動かしたことは歴史的な事実であります。

 しかしそれらと引き換えに無造作に捨てられてしまった武士道教育の精華や美風があることもまた事実です。その最たるものが「リーダー教育の喪失」という側面であります。昔日のサムライはいかにして立派な人間になるかだけをひたすら心がけ、昼夜を問わず文武の道に勤しんだわけであります。また、それを身分的に保証していたものが他ならぬ武士階級の制度であったわけです。

 一般的に人間教育は、「精神面・思考力・知識面」の三面をバランスよく発達させることが重要とされております。昔日の武士道教育は、まず三歳から切腹の作法を学ぶことをもってその始まりとされ、その子が長じてはいわゆる武芸十八般を錬磨して精神力・胆力・武術的思想を体得するとともに、孫子などの兵書はもとよりのこと、いわゆる四書五経などを学んで指導者としての思考力を養うことを常としていたわけであります。

 つまり、昔日のサムライは「精神面・思考力・知識面」のバランスの取れた自他共に認めるリーダーであったわけです。ゆえに、幕末から文明開化の時代においても先進国たる欧米列強と堂々と渡り合って来れたのです。

 しかし、その武士階級が幕藩体制の崩壊とともに消滅したため、それに代わる新たなリーダーとして台頭してきたのが、いわゆる「学校秀才」でありました。

 学校秀才は確かに「知識面」においては理解力・暗記力には優れているのではありましょうが、「精神面」や「思考力」においては(昔日のサムライのごとく)リーダーとしての特別の訓練を積んでいたわけではないのです。
 つまり、学校秀才とは単に学業面における理解力と暗記力に優れた人物というだけであって、リーダーとして優れた人物であるか否かとは直接関係ないということであります。言い換えれば、リーダーとしての能力は一般の人と同じレベルにあるということであります。
 
 日露戦争以降、日本はこのような人物を立派な人間、もしくは優秀なリーダーと錯覚して国民の死生を司る国政の任を委ねてきたのです。その結果、彼の日中戦争に続く太平洋戦争の惨めな敗北を喫したのみならず、戦後における経済的繁栄の果てのバブルの崩壊とモラルの荒廃、支離滅裂な教育行政、目を覆いたくなるような税金の無駄遣いなどを招来したのであります。

 確かに、ペーパー試験でリーダーを選ぶということは四民平等の社会においては実に公平かつ効率的な方法ではあります。しかし、こと「リーダーの選出・育成」という側面に関しては極めて不適当な方法であり、まさにミソとクソを一緒にしているやり方と言わざるを得ません。

 なぜならば、リーダーとしての資質は必ずしも学業成績の優秀さとは結びつかない要素、たとえば指導力・統率力・責任感・胆力・人間的度量・勇気・判断力・決断力などを必要とするのに対し、そのリーダーをサポートするスタッフたるの資質は、まさに学業成績優秀という側面が重視されるからであります。

 つまり「天は二物を与えず」でリーダーたるラインの長に向く資質と、そのリーダーを補佐するスタッフに向く資質とは自ずから異質なものなのです。もとより一人の人間がこれを具有するケースも見受けられますが、それはあくまでもレアケースと考えるべきであります。
 いずれにせよ、昔日の武士道教育は「リーダーの育成」という側面に関しては非の打ち所が無い、まさに世界に冠たる理想的なシステムであったわけです。これを弊履のごとく見捨てて顧みない日本人の見識が問われるところであります。

 次に、兵法的思考や武術的思想の謂われ無き軽視と、それらを具現化するものとして古来珍重され伝承されてきた古武術の衰退を挙げることができます。

 彼の赤穂浪士が吉良邸に討ち入りを果たせたのも、武士として平素から稽古していた兵法や各種武術の心得があったからに他なりません。仮に百姓・町人を四十七人集めて同じような条件で討ち入りをさせても返り討ちに遭うのが関の山と言わざるを得ません。
 個々人、あるいは集団の背景にある素養の力が大きく異なるからであります。とりわけ赤穂浪士の場合は孫子兵法がそのバックボーンにあったことは夙(つと)に有名であります。

 生きることは即ち、戦いですから(好むと好まざるとに拘わらず)兵法的思考や武術的思想が重要であることは言うまでもありません。逆に言えば、それがないと人は主体性をもって生きることができないということになります。

 武士道教育の余光が未だ消えやらぬ日露戦争のころまでは、日本にも確かにそれが輝いていたのでありますが、その後の学校秀才の登場とともに短絡的に無用の長物と即断され何時の間にか弊履のごとく見捨てられていったのです。

 さる高名な評論家が戦後の日本社会を評して「一億総町人国家」と命名しましたがまさにその通りであると言わざるを得ません。その意味で現代日本におけるサムライはまさにアメリカ軍の将官であり、アメリカの政治家と言わざるを得ません。

 農・工・商人たる日本人はサムライたるアメリカ人をリーダーと仰ぎ、その指示で日々の暮らしをつつがなく送っているという図式であります。
 そのようなサムライの国たるアメリカから新しい護身術が到来したとしても、蓋(けだ)し当然のことと言わざるを得ません。
 
 前置きがいささか長くなりましたが、ここでは以上の観点を踏まえ孫子兵法と古伝空手・琉球古武術の立場から先の記事を論評して見たいと思います。

一、「何年も修行しないと身につかない」という点について
 徒手空拳の武術という意味では確かにそのような側面があります。しかし、琉球古武術の観点よりすれば(武器術を学ぶ究極の目的は)回りにある物をいかに武器化するこということにありますので必ずしもそうとは言い切れません。要は心がけの問題であり、非力な女性が強い男性の力に対抗するために、物をいかに活用するかということは重要なテーマとなるのです。

 分かり易く言えば、火曜サスペンスドラマなどで良く目にする「女性が男性を油断させておいてその背後から花瓶などで一撃する」というあのシーンであります。もとより、ここでも孫子の曰う『兵とは、詭道なり』<第一篇 計>の方策が鍵を握るわけでありますが、それはさておき、武術修行における護身術の修得は常にそのことを念頭に置いて行うべきであります。

 さらに言えば、武術修行の目的は単に護身術のみならず、心の修養、健康法という側面がありますのでむしろ長期的にやるところに意義があります。逆に言えば、短期間で身につくものは短期間で忘れてしまい勝ちなものであり、いざという時に身に染込んだ技として使えるか否かという点に問題があります。

二、「女性に落ち度があると言う前提」について
 この意味は良く分かりませんが、おそらく女性が不用意に危険な場所に立ち入ったり、みずからそのような環境をつくってしまうことについて言うものと解されます。 つまり、(法の論理から言えば)本来はどこに居ようともそれが女性の落ち度とされること自体がおかしいのだ、ということだと思います。

 最近、日本人が陥っている陥穽の一つに、すべて物事を「法の論理」で考えようとすることがあります。たとえば、学校や子供の安全が脅かされる事件が相次ぐ中、学校の教職員に対する防犯訓練の実施や危機管理マニュアルの徹底などの要求が高まっています。しかしある教職員組合は「さすまたの使い方の訓練などが教員の職務か疑問もある。これは教育委員会の責務である」などとコメントしています。

 確かに「法の論理」からすればそう言えないこともないでしょう。しかし、現実に不審者が侵入してきても「俺たちの問題ではない」と拱手傍観することができるかどうかということであります。あくまでも現実問題への対処が先にくるということは当然のことであります。

 日本人は上から下までどうもこの「法の論理」と「戦いの論理」が明確に区別されていないようであります。このような側面についてたとえばアメリカはどう考えいるのかを研究すべきであり、まさにそのような長所をこそアメリカから学ぶべきなのであります。

 そう言えば、四〜五年前に孫子に造詣が深いと称する元自衛隊幹部と話していたとき、彼曰く「今の自衛隊は目の前に敵が上陸してきても即座にこれと戦端を開くことができない」と得意気に説明していました。

 そんなバカな話があるか、と言うと「法律でそのように決められているからだ」と平然と答えていました。戦争を「法の論理」で考えること自体がとんでもない事であり、孫子が全く分かっていない証左であると開いた口が塞がりませんでした。まさしくこれも先の教職員組合の発想と同根のものと言わざるを得ません。

 ともあれ、女性と雖も、否、力弱き女性なるがゆえに兵法的な思考力は不可欠と心得るべきであり、とりわけ襲ってくる相手が悪いと法的論理で杓子定規で考えることは自ら墓穴を掘る行為であり、護身術以前の問題であると知るべきです。

三、「急所を蹴るなど武道では反則技になる五つの基本技を教え」について
 いわゆる武道スポーツは確かに反則技でありましょうが、真正の武術、言い換えれば、弱者のための武術は(最小の力で最大の効果を上げることを目的とするため)もとより急所攻撃は当然のことです。ただし、それは回りに活用する物が何もない最悪の場合であって、最初から急所攻撃をするという意味ではありません。

 先ず、相手に打撃を与える物を振り回す、投げつける、大声を挙げる、然る後に「三十六計、走(に)ぐるを上策となす」ということになります。孫子流に言えば「始めは処女のごとく、後は脱兎のごとし、敵拒(ふせ)ぐに及ばず」となります。

 ともあれ、最近の世相には全くこの兵法的思想というものが欠落しております。大阪府寝屋川市の小学校教職員殺傷事件を見ても、不審者と判断し、これを校外に誘導するのに相手に背を向けて歩くのかと怒りすら覚えます。昔日のサムライは街角を曲がるにも敵の不意打ちを想定して大回りしたというのに。

 この点は被害を受けた女性の職員も同じことです。学校には椅子や机など無数にあるのですから机を利用して即座にバリケードを作るなり、椅子を投げつけるなどすれば少なくとも被害は防げたはずなのにと悔やまれます。

 伝えられるところによりますと、このとき別な男性職員は離れた場所に備え付けられてあった「さすまた」を取りに行っていたという。しかし、「さすまた」の使用法以前の問題として、緊急の場合、いかに臨機応変・状況即応して対処するかが先決問題のはずであります。そのことをまず踏まえ、然る後の「さすまた」の訓練というのが物の道理であります。

 然るに、「さすまた」が無かったから怪我をしましたでは、まさに本末転倒であり、論語読みの論語知らずの謗(そし)りを免れません。孫子はこのことを『方馬埋輪は、未だ恃むに足らず』<第十一篇 九地>と曰っております。つまり、何事であれ「仏作って魂入れず」では役に立たないと曰うのであります。

 それもこれもつまるところは、先の記事で「インパクト」指導員のY子さんが言うように、「興味本位やストレス解消の気軽な参加は困る。自己防衛は本来持っている力を引き出して、自分が武器になる真剣勝負の場だからです」に尽きるということであります。

 要するに、生きることは即、真剣勝負であるという認識や心構えが(日本人には)欠落しているのです。昔日のサムライにとって生き死にはまさに日常の中にあったわけですが、その構造は現代といえども不変であります。すなわち、いつの時代であれ、人が生きている以上、兵法的思考や武術的思想、およびそれを具現化した武術の錬磨は必要不可欠なものであるということです。

 現代日本人は余りにも平和ボケしているため、このようなことに関心がない向きが多いようでありますが、それは浅薄な思想と言うべきであります。
 高尚な文武の道に勤しむことのできるのは古来、王侯貴族の特権なのです。つまり、時間とお金があるからできるのです。その日暮らしの貧乏人ではやりたくてもできないのです。

 幸か不幸か、現代日本人はかつての王侯貴族以上に時間的余裕とお金に恵まれています。しかるに、(貴族のごとく)その精神も肉体も向上させようとはしません。本来、文明の利便さはまさにそのためにあるというのにです。このような現象は教育の欠陥以外の何物でもありません。

 我々個々人は、一人の家庭人、地域人、組織人、国民である前に個々人という有機的組織体の紛れもないリーダーなのであります。このリーダーの脳力を昔日のサムライのごとく絶えず磨くことが有限の生を宿命とする個々人の責務でもあり、それがよりよく生きる道に通ずるのです。

 それを体得するための最適な手段が孫子兵法であり、伝承されてきた各種の古武術ということになります。とりわけ、古伝空手・琉球古武術は、その古武術の真髄を普段着感覚で誰でも気軽に学べる所に特長があります。

 逆に言えば、その術理(法則)は、孫子兵法を理解するための適切な生きた教材となるのです。当道場が古伝空手・琉球古武術の稽古と併行して孫子兵法の学習を勧める所以(ゆえん)であります。


 第1回 空手の型演武は芸能(見世物)と同じものなのか2004.12.5
 徒然(つれづれ)なるままに空手のサイトをネットサーフィンしていると、およそ武道とは言いがたい摩訶不思議な言葉が(空手の世界では)市民権を得ているようである。

 曰く、『山突きが3回あるので「見栄え」のするように決める』、『最後の左手刀受けは、「見せ所」なので力強く演じる』、『この型の「見せ場」は最後の回転飛びから手刀受けであるから着地でピタリと決まるように練習すべし』などである。

 筆者は最初、歌舞伎とかお芝居とかのいわゆる芸能の世界の演技を説明しているのかと思っていたら、どうやらこれは空手の型の解説をしているらしいということに気がついて二重の意味で驚いた。

 一体、武道を標榜する空手の型の解説で「見栄え」とか「見せ所」とか「見せ場」とかは何を意味するのであろうか。思うに、これは「観客アピール」ということを言いたいらしいのであるが、そもそも観客受けを狙うということそれ自体が、観客に媚(こび)を売るのと同義語であり、まさに歌舞伎とかお芝居などの芸能の世界の発想と言わざるを得ない。

 いわゆる「河原乞食」から発祥したとされるそのような芸能の世界を見下すわけでは毛頭ないが、ともあれ「見栄え」とか「見せ所」とか「見せ場」などの言葉は、およそ武道の世界とは無縁のものであり、本来的にはスポーツの世界のものですらないということである。
 百メートル競走やマラソンなどの選手が観客受けするように「見栄え」「見せ所」「見せ場」を作りながら走るだろうか。走るわけがない。こんなことは普通の頭で考えれば誰でも分かることである。

 とは言え、何ごとも例外はあるもので、スポーツのなかには体操の床競技やフィギアスケート、あるいはエアロビクスやシンクロナイズドスイミングなどもあるため、そのような場合は確かに「見栄え」「見せ所」「見せ場」などが必要なのかもしれない。そうすると空手の型はこの類の部類に入るのであろうか。普通の頭で考えればそうとしか解されないのである。

 しかし、体操の床競技やフィギアスケート、あるいはエアロビクス・シンクロナイズドスイミングなどの演技は誰も武道とは言わないし、言える可くもない。何ゆえに、空手の型競技だけは武道なのだろうか、実に理解の苦しむところである。どう見ても、武道とは似て非なるもの、言わば空手競技とでも言うべきものである。このようなものを武道と言うから世の中の人が混乱するのである。
 然るに、念仏のごとく武道、武道と強弁しているところを見ると、我々凡人には分からない、何か深遠な根拠があるのであろう。

 そもそも、古来伝承された空手の型なるものは、言わば技の覚え帖であり、まさにそのことに価値があるのである。そのゆえに、技の意味を理解し単独でもそれを修練することができるよう工夫された一人稽古のための便宜法という側面が成り立つのである。
 逆に言えば、その意味が伝承されていなければ型の所作は同じであってもその価値はまさに月とスッポン(両者とも円い形をしているという点では似ているが実は非常な違いがあるという意)ほどに違うのである。
 そのゆえに、、型を修練するということは、技の意味を理解してイメージしつつ反復訓練すること、すなわち実戦組手そのものの稽古をしていることと全く同義語なのであり、「見栄え」「見せ所」「見せ場」などとは全く次元の異なる世界なのである。

 日本人の民族的欠陥として「一を聞いて(本当は何にも分かっていなのに)十を知った積もりになる」という性癖がある。武道と芸能を混同するなどまさにその最たるものと言わざるを得ない。

 その違いを端的に、かつ格調高くまとめられているサイトがあるので(無断ではあるが)以下にその一部を引用させていただく。関心のある方は「西郷派大東流合気武術」のサイトをご訪問ください。

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 殿中の礼法から言うと、本来、客席は存在しないものである。また道場も同じであり、客席は存在しない。道場と言うのはあくまでも修練の為の聖域であり、古来より、神座を正面に置いて設計されている。したがって修練の場である道場に、客席は存在しないのである。

 一方、観客席が設けられている劇場などの建物は、その中で催されるものが「見世物」である事を意味している。見世物は衆人の目にさらされ、面白がられる事が基本であるから、珍しい物や曲芸や奇術などを見せる興行小屋であり、ここに道場と劇場の違いがある。

 多くの場合、劇場の構造は、客席が上座になるように作られている。また、客席の中心はロイヤルボックスであり、これから見ると、芸人が演ずる舞台は、完全に此処が下座である事が分かる。したがって芸人は、観客を見下すように演ずるのではなく、観客に観(み)られるように演ずるのである。この事により、芸人は、観客よりも一等低い場所と、低い地位にある事が分かるであろう。

 この違いを明白に物語るものが「天覧試合」である。天皇は、日本武術を諸芸能と同列に置いて、これを見物すると言う事はない。視(み)る事はあっても、見物とは異なるからだ。これは興行と修練の場である道場をはっきり隔てた考え方で区別している為である。

 武術や武道の名を用いて、一同に集めて何事かを行おうとすれば、観衆の有無が問題になってくる。観衆が居なかったら、日頃の練習も無駄になると思っている人が少なくない。自分の武術・武道人生と、観衆を結び付けて考え、大勢の見物人を前に試合する事に生き甲斐を感じている人間もいるのである。

 一方、道場を神聖な場所として考え、修練の為の聖域と考える人は、観衆と、稽古の成果を安易に結び付ける事が出来ない。当然の結果として、観衆を考えた場合、上座が観客席になるのであるから、聖域で日頃の修練の結果を披露する側は、一等下がって下座に落ちる事になる。
 これは娯楽の為の寄席(よせ)や漫才と、政事(まつりごと)などの行政を決定する会議と同じ意識で行うようなものであり、その違和感は甚だしいものであろう。
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 (戦略的思考ができないという点を除き)日本人は世界に冠たる優秀民族であることは間違いない。そのゆえに、先に述べたようなことは(常識ある人なら)誰でも理解されていると思う。ただ自分の属するムラ社会の言語・習慣に付和雷同する方が(生き方として)楽であり、かつ村八分されるのが怖いから従っているに過ぎないと解される。

 しかし、21世紀に向かうこれからの日本人は、正しいものは正しい、間違ってるものは間違っていると率直に判断し、「王様、裸ですよ」と忌憚なく発言する勇気が必要であると愚考するものである。

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