第15回 空手の下段十字受けは本当に使えるのか2011.10.19
<質問>:札幌の渋谷

 空手の型にはよく下段十字受けが出てきます。一般的にこの技法は(相手の中段前蹴りを)両腕交差の十字の形で受けると説明されていますが、私はこれに常々、大いなる疑問を感じています。
 我の両手が塞がっている状態であるため顔面がガラ空きとなって適当ではないからです。尤も、そのために平安五段にあるような上段十字受けが連動する技(相手の前蹴りを我は下段十字受けで受けて、さらなる相手の上段突きを我は上段十字受けで受ける意)として存在するのだと事情通に反論されます。

 確かに、段受けをしたとたんに上段突きが飛んで来るのは通常よくありますが、言わば殺陣のように、そう都合よく上段十字受けで受けられるとはとても思えません。仮に、受けれたとした場合、その後の処理をどうするの説明もあやふやです。とりわけ、さらに相手が中段前蹴りに転ずるなどすれば、むしろ、墓穴を掘ってしまう恐れがあります。

 百歩譲って平安五段の場合はそれで良いとしても、下段諸手十字受けが単独で出てくる場合はどう解釈するのかやはり疑問です。

 そこで私は、

(1)本来は片手の動作を、表現上または鍛錬上、両手で行っているのではないか。
(2)片手は攻撃、片手は防御ではないか(平安四段の下段十字受けなどは下段払い+逆突き)。
(3)そもそも受けに見えるが、攻撃ではないか(平安五段後半の下段十字受けなどは倒した相手への攻撃)と考えております。

 いずれにせよ、「両手で蹴りを受ける」という動作は武術的には完全に誤りであると考えているのですが。


<回答>

 (3)につきましては、もとより言われるようなやり方も想定されます。が、しかし、果たしてそれが技法の基本的解釈かと言えば必ずしもそうとは言えません。

 (1)と(2)についての技法の意味はまさに言われる通りであります。とは言え、示されている「下段払い+逆突き」の所作をどのようなやり方で行うのかについては、恐らく、渋谷さまが考えられているやり方とはかなり相違するものがあると思います。

 少なくとも、まさにそのままのいわゆる額面通りの形で「下段払い+逆突き」を行うものでないことは確かであります。

 その上で、(1)に関して言えば、だからと言って『両手で蹴りを受けるという動作は武術的には完全に誤りである』とは必ずしも言い切れません。もとより片手でも行えますが、それのみに限定されず、両手を用いる技法もあるということです。

 たとえば、掌面を用いる諸手下段払いなどがあります。これはクーシャンクー(小)に示されております。また、下段に限定しなければクーシャンクー(大)の上段諸手払い、ローハイ二段の中段諸手払いなどがあります。因みに、型に良く出てくる中段諸手受けも、諸手で受ける形に重要な意味が隠されております。


<質問>:沖縄剛柔流 山人草

 両手をクロスさせて受ける技は剛柔流では例えばサンセールーやクルルンファーにありますが、受けると同時に相手の腕や足をつかんで倒すか、投げるものと解釈しています。クルルンファーの場合、背負い投げのようになります。但し、受けただけで終わっていれば仰る通りでと思います。

 組手試合ではつかんだりなげたりすることが自由に出来ないルールがあると聞いたことがあります。実は、空手の型には投げ技や逆手と呼ばれる柔術的な技がかなりあると思うのですが、試合化により解釈が変わってしまったのでしょうか。


<回答>その二

 ご意見を頂きありがとうございます。私の説明が十分でないことは重々承知しております。ただこれには理由がありますのでその背景をまず説明します。

 つまり、渋谷さまの流派では、平安四段・五段などにある下段十字受けの解釈として、一般的には(中段前蹴りに対して)正面から腰を落としてガッチリと下段十字の形で受けるとしているのです。

 渋谷さまは、それに対して異なる見解、つまりご質問にあるような内容の考え方を示されたわけです。一言で言えば、諸手で受けている所作は、武術的には有り得ないというのがその主張なのです。

 その点(つまり諸手で受ける所作は妥当か否かの意)に関してのみ、私の見解を述べたということであります。

 すなわち、下段十字受けの解釈の一つとしては渋谷さまの言われている通り、(技法の一つという意味での)片手による下段払い、従ってまたそれに続く攻撃技(たとえば逆突き)という意味合いもあるのです。

 その意味に限定して私は渋谷さま言う通りであると申し上げたのです。そうすると、実は渋谷さまの主張されている(1)と(2)は(片手は攻撃、片手は防御という意味で)まさに同じことを言われているということになります。

 同じく(3)については、それが技法の基本的解釈かと言えば、(受け・反撃を第一義とする古伝空手の解釈からすれば)かなり異なるものがあるということです。それでは下段十字受けの解釈は(2)だけかということになりますが、そうではないということです。

 言い換えれば、下段十字受けの解釈としては、(渋谷さまが言われるが如く)単純に片手で受け、片手で攻撃するという以外に別な解釈もあるということです。しかし、それは軽々に説明することではないので、敢て省略したということであります。

 そして、それとは別に、諸手で受けることは必ずしも武術的でないとは言い切れないという意味合いで、開掌による諸手払いあるいは諸手中段受けなどを説明したという訳であります。

 それはさておき、山人草さまのいわれるサンセールの下段十字受けは、(私の理解では)手刀によるものと拳によるものの二種があります。おそらく後者はもう一つの下段十字受けの解釈の意、前者はその応用としての投げの意かと思います。

 また、クルルンファーの開掌による上段十字受け及びその後の所作は、首里手で言えばクーシャンクー系の技にあります。

 言われる通り左右に変化しての投げ、もしくは逆手を意味しております。ただし、ピンアン五段の場合は型の構成上から見てもそれとは別な技法となります。

 ともあれ、御懸念されているように、空手の型の武術的原義は(空手のスポーツ化によって)その解釈が変わるという性質のものではありません(そもそもスポーツ空手では投げや逆手は原則的に禁止されております)。

 もっとも、いゆるスポーツ空手における型の解釈が武術的空手の武術的原義とイコールになるかと言えば、必ずしもそうとは言い切れないということです。もとよりそこには、そうなるだけの理由がある訳ですが、ここでは触れません。

 いわゆる日本武術は、一般的に、優れて合理的かつ精緻な武術の技法体系を備えているからこそ高く評価されるのであります。日本武術の一類たる琉球武術においても事情は全く同じであり、まさにそこにこそ文化遺産としての琉球武術の真価があると考えます。

 山人草さまの御流儀が敢えて沖縄剛柔流と名乗られておられる所以(ゆえん)も、まさにそこにあるものと推察いたします。

 第14回 空手の稽古に知性・思考力は不可欠である2009.7.14
<質問:空手吉兆さま>

 最近、「食」に関する「偽装」事件が蔓延っております。産地偽造、製造年月日の偽造等、枚挙に暇がありません。

 恐ろしいことに、我が愛する空手道にも、偽装が蔓延(はびこ)っております。自らが学んできた流派を名乗らず、恰(あたか)も、自分が正統なる沖縄空手を学んできたかのように偽装するという、恥知らずの人物まで居ります。

 管理人様。このような人物を如何思われますか?


<回答>

 折角の御質問ですが、正直のところ実に意味不明の内容と言わざるを得ず、どのようにお答えしてよいのかも分かりません。

 そもそも偽装云々を言われている方が、ご自身のお名前が「空手吉兆」ではまさに自己矛盾の極み、実に漫画的にして、かつ「語るに落ちる」ということであり、説得力のないこと甚(はなは)だしいものがあります。空手云々を言われる前に、論理的な勉強が必要なのではないでしょうか。

 ともあれ、何が偽装で、何が偽装でないのか、はたまた偽装とは何なのか、その根拠を明示されての再質問をお待ちしております。

 とは言え、それでは余りにも厳しい物の言いようなので次のように付言しておきます。

 一般的に言えば、偽装などは(空手に限らず)何処の世界にもあることですが、空手の場合は、とりわけその特殊性に起因して(本来の術理を正しく伝えていないという意味での)偽装は大いに蔓延していることは確かだと思います。

 例えば、いわゆるスポーツ空手は、通常、「空手」と称されて市民権を得ておりますが、これなどはまさに偽装の最たるものと言わざるを得ません。つまり、伝来の空手(武術空手)という意味合いからすれば、いわゆるスポーツ空手は(その意味での)空手とは本質的に別物であり、ゆえに正確には「競技空手」と称すべきものだからであります。

 また、「食」や「年金」の問題とは自ずからその性質を異にするため、それが「食」や「年金」のごとく社会的な問題に発展しないというところに特徴があります。極論すれば、百人の空手指導者が各々「これが空手だ」と言えば、それぞれそれが空手になってしまうのが実態と言わざるを得ません。

 言い換えれば、現代空手の有する、謂わば「創作の自由度の高さ」とでも言うべきその特質・特殊性ゆえに空手の今日の隆盛があると言えなくもありません。

 角度を変えて言えば、日本のいわゆる伝統武術たる、例えば柳生新陰流や示現流剣術、はたまた竹内流柔術などにおいては、代々、その伝統を正確に継承されてきた宗家がおられます。

 その宗家を差し置いて、少しその門に学んだだけの斯道不案内の人間が勝手にその内容をアレンジし「これが○○流だ。俺が本家本元だ」などと名乗れば天下の笑い者になるだけで常識的にはできません。

 しかし、空手の場合は沖縄の廃藩置県を契機として(ことの善し悪しはともあれ)それが自由にできる社会的風潮が生じて来たということです。つまり、百花繚乱というのが現代空手事情であると言うことです。

 従って(本来の術理を正しく伝えていないという意味での)偽装の跳梁跋扈も蓋(けだ)し当然のことと言わざるを得ません。

 とは言え、もとより空手もその公開以前においては、(日本の古流剣術などと同質のものとしての)確固とした武術的思想や術理をキチンと備えていたものであることは論を待ちません。そのゆえに、現代の空手事情は真贋ない交ぜての玉石混交の時代と言えます。

 従って、対処への答えは唯一つ「その真贋を見極め、偽装に騙されないようにするための知性や思考力を磨くこと」に尽きるのであります。

 とは言え、残念ながら現状は、それを的確に判断するために必要不可欠な情報、即ち、空手本来の武術的思想・術理から見て、何が正しく、何が正しくないのかの判断基準たる材料が余りにも不足しているということです。危きかな、であります。

 手前味噌の謗(そし)りは免れませんが、最近、某流派から入会されたある有段者の方は、「同じ空手で何でこんなに違うのか」と絶句されておられました(因みにこれはスポーツ空手と武術空手の違いの意です)。が、しかし、私はこれまでそのことに気が付かなかった彼を責める気にはなれません。

 問題は彼の怠慢にあるのではなく、彼に正確な情報を与えることができなかった一般的傾向がその最大の原因と考えるからであります。



<質問:のやまさま>

 横から話題に入り込む形になり申し訳ないのですが、空手吉兆さまのご質問について拝見したとき、一見すれば何気ないご質問のようにも感じられます。

 しかしよく見ると、これには各道場での『事情』のようなものも加味した上での問題も含まれているのではないか?と感じられる部分もありますので、私のお話にお付き合いいただければと。

 まず、空手吉兆さまのお話にある『自分が正当な沖縄空手を学んできたかのように偽装する』というくだりですが、これには、沖縄空手とはまったく違う流派を学び、しかも運の悪いことに空手そのものがもつ本質的な目的や意義といったことを学ぶ機会もなく空手家として歩んできた人が、そのご自身の姿に気づいたときに、ご自身の立場から、そういわざるをえない状況になったとすれば、そういう行動に出ることもあるのではないかと私は思ったのです。

 たとえば、流派としての教え(とくに各流派の開祖といわれる諸先生方から、もっとも重要なこととして伝えられたこと)を重んじることなく、各種のスポーツ空手イベントでポイントを稼ぎタイトルを得ることだけに集中してきた人の場合であれば、沖縄空手としての武道理論などはとうてい理解しえるものではないと思います。

 しかし、ある時点で『手(てぃ)』の理論や武道空手としての本質に触れたとき、それなりに空手の経験を持っているわけですから、ギャップに対するショックは大きいと思います。

 しかしそういう立場に陥ったとき、その人がプライドを捨ててすぐに路線を変更して学びなおすだけの腹をくくれるか?というと、必ずしもすべての人がそうだとは限らないと思いますので、そこで、『いっそのこと、みんなが知らないうちにイメージチェンジを図っておこう』と考え行動するケースも、場合によってはありうるのではないかと。

 これがもし、門下生の立場の人であれば、すぐ道場に見切りをつけて別のところに入門しなおすといったこともあると思いますが、これが逆に、すでに指導する立場になっている人の場合は、そうも簡単にいかないのではないでしょうか。

 もちろん、そういう行動に出ること自体、武道を学ぶ以前に人として、見方によっては卑怯ともとれる行動だと思います。

 そういう人が、そもそも武道の道に入り、あまつさえ場合によって有段者として空手の世界に籍を置くこと自体が正しいのか?ということについてはまた一歩込み入った話ということになるのですが、その入り口にあたる部分として、そういう行動に出る人、もしくは同様のことを考える人をさして『恥知らず』と表現されているのではないかと思えるのです。

 そこへ、道場を経営する上で利益を保持しなければいけない立場であるとすれば、そういう行動に走る傾向はさらに強くなることも、推測できるのではないかと。

 そこで、管理人さまをはじめ空手の世界で、武道論や空手の理論といったものを確立されている方からの目には、どのように映るのか?といったことに興味をもたれたのではないかと思います。

 あるいは、実際にそういった人を目のあたりにして、何らかの怒りなり疑問なりといったことを、多少なりとお持ちになったのかもしれませんし、『空手吉兆』というハンドルネームを名乗られたのも、そういうところを総称しての、皮肉のつもりで…、というところもあるかもしれません。

 もとより私も、まだまだ勉強中の身ですので、いろいろと模索している部分も多いのですが、場合によっては上記のような人に出くわす可能性もあるのではないかと思いました。

 かの松村宗棍先生の遺訓のなかでも、臨機応変の重要さを説いておられますが、その臨機応変といったものが、もし間違って解釈されてしまったときに、そういうことが起こるかもしれません。

 もちろん、これはまったくの私見であり、空手吉兆さまの本意ではないかもしれませんので、一概に言えるものではないのですが、私には、そう見えるのですけれども。

 もし、論点が的外れであれば申し訳ありません。私なりに思ったことを書き連ねてみました。



<のやま様への返信:管理人>

(1)論点は決して的外れではありません。少なくとも貴方には物事の本質や根本とは何かを追究しようとする姿勢や態度が感じられるからであります。まさにその態度や姿勢こそが既に学問であります。

 そもそも「空手に学問もしくは知性、もしくは思考力は必要なのか」ということでありますが、少なくとも社会人たる者の空手には(そのような意味での)学問的もしくは知性的な態度、もしくは物事を追究する思考力は不可欠の要素と考えております。

 逆に、思考停止し、盲目的かつ宗教的に空手を行ずるのは最も忌むべきことです。

 「空手だけやっていればそれで総合的な人間形成ができるのか」と問われれば、一般的には「否」としか言いようがありません。少なくともそこには、いわゆる人間学と称される学問の修養や練磨、言わば、知育・徳育が要求されるからであります。

 逆に、「学問だけで総合的な人間形成・人間づくりができるのか」と問われれば、これまた「否」であります。やはり、そこには(武術的な意味での)精神や肉体的練磨、言わば体育が要求されるからであります。

 往年のサムライ達が文武両道を追究し、程度の高い人間づくりを目指して日夜、練磨した所以(ゆえん)であります。

 言い換えれば、空手(武)の中に文(学問)があり、文(学問)の中に空手(武)があるということです。この両者が相互に影響し循環往復して尽きることなくスパイラルに発展向上してゆくところにこそ、社会人たる者が空手を修行する真の価値があると考えております。

 つまり、空手で学んだことを実生活に活用し、実生活で学んだことを空手の修行に活かすことができるということであります。そのような状況を生み出すためのメルクマールは、偏(ひとえ)に、「自分のやっている空手はこれで良いのか、何が正しいのか、それを判断する基準は何なのか」を追究して止まない学問的態度や姿勢であると思います。

 言い換えれば、社会人たる者の追及する空手は、唯(ただ)に、武術および武術的思想をキチンと具備したものであることが必須の要件となります。底の浅いものでは大の大人が追究するには余りにも物足りないし、飽(あ)きがくる、将来的展望や希望を見出せない、ということです。

 その意味で、貴信に示されている御趣旨は、決して的外れではない、と断言いたします。ただ、惜しむらくは、(その意気込み、方向性は善しとするも)その方法論が適切であるか否かの追究が不十分、もしくはその判断材料が余りにも不足している感、無きにしも非ずであります。


(2)空手の偽装は悪いことか

 一面的に見れば、もとより偽装は悪いことであります。とりわけ、食品などの偽装は通常では見分けが不可能な性質ゆえに悪質の極みであり、厳に社会的な監視と制裁が必要とされます。

 しかし反面、偽装には簡単に見破ることが可能な性質のものもあります。分かりやすく言えば、政争・選挙戦などに絡む政党や政治家の嘘、テレビの過剰な演出の嘘、三流雑誌の誇張記事、振り込め詐欺の口上、はたまた、いわゆるスピリチュアリズム(心霊・霊媒主義)の嘘など数え上げれば際限がありません。もとより、騙される人も皆無ではありませんが、通常では、自己の常識の範囲で判断して騙されることはありません。

 さらに言えば、そもそも神ならぬ身である以上、嘘をつかない人間など『未だ之れ有らざるなり』<第二篇 作戦>であり、ことの広狭大小・軽重・必要悪か否かを問わず、嘘をつくのが人間の常態と言わざるを得ません。

 これを敷衍(ふえん)すれば、偽装は人間社会においては根絶できないのであり、そこには、社会的な実害、影響の甚大さから見て許されるものと許されないものとがあるということです。

 偽装の善悪のメルクマール(標識)を何処に置くかは人それぞれの考え方でありますが、空手の偽装に関して言えば、私は極めて通常のことと考え、とりわけ気に止めていません。

 それが偽装か否か、空手人としての通常の経験・知識、加えて謙虚な探究心があれば、明らかに自分で判断できる事柄であると考えるからです。その意味では、仮に騙されている人がいるとすれば、騙される側にも責任があるということです。大いに疑問を発して質問し、疑惑・疑念を晴らすべきであります。

 例えば、彼の朝青龍がいわゆる空手を二・三年習い「殴り合いに関してはオレの右に出る者はいない、オレこそ最強の空手マンだと」と称したとします。それはそれで良いでしょう。しかし、彼が後年、その空手を「空手」として指導した場合、果たしてそれが伝来の空手と言えるのか否かという問題です。

 ここのところを混同せず、彼の強さは強さ、しかしそのことと伝来の空手の技法・術理とは自ずから別物であると明確に区別し認識することが、いやしくも空手を修行するものの見識であり知性であります。

 空手は、琉球古武術と表裏一体を成すものであり、この両者が相俟って琉球武術として伝えられた文化遺産としての側面があります。このことに思いを致すことが空手を生涯武道として追究するためのヒントをもたらすのです。高々、空手のことでありますが、そのゆえにこそ、知性ある学問的態度や姿勢が肝要なのであります。

 言い換えれば、「三年勤め学ばんよりは、三年師を選ぶべし」のごとく、要は、自分にその力量があるか無いかの問題とも言えます。その意味で、「過ちを知るは難きに非ず、過ちを改むるを難しと為す」の箴言は拳拳服膺すべきものがあります。

 世に「悪貨は良貨を駆逐する」の言があります。難きよりも易きにつき勝ちなのが世の習いとも言えます。が、しかし、たとえ、大勢がそうであろうとも、こと兵法の道においては、何が正しく、何が正しくないかを的確に見極め、やるべきことをやり、進むべき道を誤らないという姿勢が肝要であります。


(3)ブライドには捨てるべきものと守るべきものがある

 「一寸の虫にも五分の魂」ゆえに、自身のプライドは目先を生きる上においてはもとより必要です。が、しかし、将来における自身の真の進歩発展を願うとき、本来は、捨てるべきでありながら、いつまでも執着している醜いプライドとは、一体、何者で、何ほどの価値があるのかを再検討すべきです。

 武道家たる者の真骨頂は、まさにそのようなつまらないプライドをいかに乗り越え捨て去るかにあります。その極致にあるものが、例えば、彼の赤穂浪士と言えます。

 我、人ともに、生きる方が好きであり、生か死かと迫られれば、誰しも生きる方に理屈が付きます。赤穂浪士とて例外たり得ません。生に執着するという生物としてのプライドがあるから、人はこの世を生きられる訳です。

 しかし、赤穂浪士の場合、武士たるの永遠の命を思うとき、その小さなプライドを捨てなければ真の意味での本懐は遂げられないわけです。もし、彼らがその生に執着し生きながらえようとしたなら、恐らく彼らは後世に(人の子ゆえの)生き恥を晒したことでしょう。

 往々にして、自己の進歩発展の最大の阻害要因は、本来、捨てるべきなのに捨てきれないでいる醜いプライドにあります。その意味で、例えば、赤穂浪士の生を断ち切る志の高さに比べれば、(現時点で抱いてる)空手へのプライドなど一体、どれほどの値打ちがあるというのでしょうか。語るも愚かであり、それこそ「クソ食らえ」と言いたいところであります。


(4)「空手吉兆」氏の投稿に関する私の見解

 一言で言えば、「空手吉兆」氏は、さしたる根拠もなく、また深い思慮もなく、言わば単なる思い付きで投稿されたものと考えております。言い換えれば、そもそも(空手の)偽装とは何か、その意味が良く分かっておられないと思います。つまりは、論ずるに足りないということです。

 私が、『何が偽装で、何が偽装でないのか、はたまた偽装とは何なのか、その根拠を明示されての再投稿をお待ち申し上げております』と書いた所以(ゆえん)です。



<のやま様からの返信>

 ありがとうございました! たしかに探求するのは良いとしても、その方法がはたして正しいのかどうか? 間違っているとすればどこを正せば良いのか?というところについては、一歩手前での考慮が必要ですね。理屈ではわかっているつもりでも、こと実践となるとなかなか行動が伴わず…、たしかに反省すべき点でした。

 お話の中にあったプライドの件について、赤穂浪士の場合はまさに『真に強い人間』だからこそ、とることができた行動なのではないかと思うのです。

 これはべつに私だけではないと思うのですが、空手ひとつにしても最初はただ『強くなりたい』という動機だけで始めたとしても、それはもしかしたら弱い立場にあることで不利な立場に追い込まれることへの恐怖心、つまり『負けることへの怖さ』が自分をそうさせていたのではないか、言い換えれば『負けることから逃げる』ことで自分自身を安心できる領域へと導きたかっただけではなかったのか…、と考えるときがあります。

 それを思うとき、自分自身が本当は弱いからこそ武道の世界に入ったのではないか、他の武道未経験者の方々が言うほど、私たちはさして強くないのではないか…、という考えに至ることも少なくはありません。

 つまり武道を鍛錬する上で『自分の弱さに気づく』ということが、本当は一番大切なのではないか?と思うようになりました。

 『武道をして強くなる』のではなく『武道をする弱さを側面として持っている自分を認める』ということが、本当は一番大切なことなのではないかと。

 日ごろ、そう考えていたときに、今回の管理人様のお言葉をみているうち『たしかに死ぬことは怖いと思う。しかし、その恐怖心を取り去るだけの”何か”が、もし日常の信念としてあったとすれば…』と思ったのですが、本来の武道がもつ精神性とは、そういった表裏一体のもののなかに、なにか生活をする上での答えがあるのではないかと思いました。

 まだまだ考えは初歩的な段階だと思います。しかしこれをじっくりと、正面から真面目に向き合いさえすれば、いずれ武道をやる者として、なにか見つけることができるのではないかと思うのですが、はたしてそれが正しいのかどうか? ということについては、もっと手前にある段階として考えてみます。ご教授ありがとうございました。



<のやま様への追伸:その一>

  まさに言われている通りであります。折角の機会ですので、幾つか気付いた点をコメントさせて頂きます。


(1)お説とは逆ですが、赤穂浪士と雖(いえど)も、全く普通の人間であったと解するのが適当です。私が考えるに、(その装うところはともあれ)人間は皆、弱い者であります。しかし、状況によっては鬼神も拉(ひし)ぐほど強くなれる者でもあります。


(2)私が思うに、強い人間は武道などしないと思います。なぜならば、しなくて平気だからです。しかし、弱い人間はそれでは不安なので武道に勤しむことになります。

 はたまた、例えば、酒を飲んで街を平然と歩く人は強者であると思います。何が起きても十分対応できると思っているからではないでしょうか。

 臆病な人間は、(それでは不覚を取る不安におののき)怖くて酒など飲んで平然と歩けません。已むを得ない場合はともあれ、飲みたければ家で飲むのが心得かと思います。況んや、飲酒運転においてをや、であります。而(しか)るにそれが平然とできるということは、まさにそれは豪傑であり強者であると言わざるを得ません。

 例えば、群集の中に行くことを好む人、極力、群集の中を避けようとする人もまた同じことが言えます。

 しかし、人生という長いスパンで眺めれば、最終的にどちらが真の強者、あるいは「無事これ名馬」たるの人となり得るのか、と言えば確率的には後者であります。

 皮肉を込めて言えば、前者は一見すると確かに強者です。しかし、それは孔子の曰う『暴虎馮河(虎に素手で向かったり大河を歩いて渡ろうとする意)の如き無謀の人』であるゆえに、真の強者とは似て非なるものと言わざるを得ません。

 要するに、人間はただ、心がけ次第で真の強者にもなれば、弱者にもなるということであります。総勢三百人前後と伝えられる赤穂藩士も結局、約二割の忠義の士と、八割の不忠の士とに分れましたが、それぞれ人間として苦悩と苦渋の決断をしたということであります。


3、正しいやり方とは何か

 何事もそうですが、現実と理想の均衡を図ることは極めて重要であります。然(さ)りながら、人の行動は、ともすれば、現実に、あるいは理想のいずれかに偏向し勝ちであります。その意味で、理想を知って現実を向上させるということが肝要なのです。

 まさに、その心掛けがあれば、(強い弱いに関わらず)やがては正しいやり方が身に付くということであります。

 例えば、空手の「受け」の本義は相手を崩すことにありますが、一般的には、「受け」は、文字通り、ただ攻撃を「受け払うもの」の意と解されている場合が多いようです。

 単純に点数的に言えば、前者の技法を百点とすれば、後者の技法は30点とも言えます。とは言え、百点を目指して稽古しても、実際という意味合いにおいては、30点位のレベルにしか至らない場合が多いのが現実であります。

 例えば、人生という修羅場において、もとより百点満点の生き方を目指しても実際には30点、否むしろ、そこまで行けば上出来かもしれない、とも言えます。

 しかし、だからといって目標たる獲得数値を初めから30点に置くことは適当ではありません。その場合、現実的、もくしは経験則的には10点前後にしかならないからであります。

 その意味で言えば、理想はもとより百点の「受け」を目指しますが、実際は必ずしも理想通りには行かない場合もあるので、その時は、現実的な30点の「受け」でも善しとせざるを得ないということです。

 言い換えれば、最悪の場合、30点の「受け」はいつでもできるので、敢て初めから30点の受けを最高のものとして稽古する必要は無いということです。あくまで、初めから百点の要素で構成されいる理想的な「受け」を稽古することが肝要と考えます。

 私が言いたい「適切な方法」とは、まさにその百点の要素で構成される理想的な「受け」とは何かを知ると言うことだと御理解ください。

 然(しか)らば、それを知るにはどうするか、という問題でありますが、つまるところは、謙虚に武術という意味での先人の知恵に学ぶのか、はたまた、驕(おご)りという意味での個人の独断と偏見に依拠するのか、という問題になると思います。

 一般論的に言えば、後者のやり方で前者の方法に到達することは限りなく困難であると言うことです。とは言え、後者のような立場の人は、ともすれば、人生の時間は限りなくあると考えておられるようですので、その意味では不可能では無いと思います。


<のやま様からの返信>

 たしかに、具体的な方法をどうのこうのというよりも、心がけひとつで方向性を変えることによって、強者にも弱者にもなれますね。

 日常では『心がけ』というと、記憶として留めておき、機会があれば実行するという解釈になりがちですが、心を定めて腹をくくるという意味が含まれていることを考えれば、その延長線上にあるものを考えればその姿が想像できます。

 この百点を目指そうとする姿勢を確固たるものにするための心がけこそ武道に求められるべき姿勢だと思いますし、それは大切なものとして認知はされているものの、目指すべきところはどこにあるのか?ということがわからなければ意味がないことをよく考えるようにしないといけませんね。

 数年かかるかもしれませんし、数十年になるかもしれません。また、もしかしたら一生かかってもできないかもしれませんが、本当の意味での心がけというものが何かということがわかったとき、見えてくるものを大切にしたいと思います。



<のやま様への追伸:その二>

 貴返信にやや勘違いされておられる部分があるように感じましたので、ここに改めて補足しておきます。

 念のため申し上げたいのは、「受け」の本義は崩しにあるということと、そして、そのような理論構成の「受け」は伝統的に既にあるということです。例えば、以前ご説明した「腰切り」はその崩しにも活用するものであるということです。

 誤解の無いように申し上げれば、もとより「腰切り」は突きにも武器の操作にも活用するものですが、当然のことながら「受け」においての崩しにも活用できるという意味であります。

 そのゆえに、貴返信にありますように、単に「心がけ」によって百点の「受け」を求めるという意味ではありません。言い換えれば、たとえ「心がけ」が申し分の無いものであったとしても、だからと言って百点の「受け」が得られるものではない、ということです。そのような理論構成の「受け」は伝統的に既にあるということです。

 先般、「腰切り」についてたまたま御存知なかったように、今回も不幸にして「のやま」さまがたまたま御存知ないだけの話しであります。

 ましてや、「数年かかるかもしれませんし、数十年になるかもしれません。また、もしかしたら一生かかってもできないかもしれませんが」というような方向性のことではなく、具体的な技法の意として申し上げているものです。

 言い換えれば、私が申し上げている意味での「受け」は、(伝来の琉球空手という意味では)とりわけ秘密にされているわけでもないので、もしかしたら「のやま」さまの周辺にあるのかもしれません。否、むしろ(幸福の青い鳥と同じで)あるけれども見えていないと言うべきかも知れません。

 もし、探しても見つからないのであれば無いこと自体に何か問題があると疑うべきかも知れません。

 私が申し上げているその意味での「心がけ」とは、玉石混交、真贋無い混ぜての様々な言説が横行する空手の世界において、真実を判断するに足る確固たる基準を持つこと、それを具備するためにはどうするか、そのための「心がけ」を言うものです。

 その「心がけ」一つによって強くもなれるし弱くもなれる、もしかしたら一生追求しても後悔しないものに廻り合えるかも知れない、はたまた廻り合えないかも知れない、そうゆう意味です。

 はっきり言えることは、人間は、感情と欲望の動物ゆえに、とりわけ自己に関わる眼前の「真・偽」や「実・虚」、はたまた「利・害」「損・得」などに関しては、どうしても仏教に曰う「無明」の世界に陥り易く、かつ、それに支配される傾向にあるということです。

 私の言う「心がけ」とは、少なくとも、こと空手に関しては思わず知らず、先入観念や色メガネでもって判断することは厳に慎むべきであるということです。

 それらは大概、虚心坦懐・素直に、普通の良識をもって判断すれば十分こと足りるものばかりだからであります。その普通の思考を離れ、ことさら大仰に考えようとすることは返ってその本質を見失うことになると思います。


 第13回 スポーツ空手と武術空手の本質的な違いとは2009.3.16
<質問>

 先日、全空連における組手試合の規定を見ておりましたが、空手の歴史と役割というものを私なりに理解しております範囲で読み進めていきますと、私個人として『はて…?』と思うような部分がありましたので、それについてご紹介したく思います。

 これから私が論ずる内容は、管理人さまにとってはすでにご周知のことでもあるかもしれませんけれども…。

 全空連では組手における各技の判定として、ヒットに対し突きは1ポイントというものから上段の蹴りは3ポイントといったものまで、ポイント制を採用して分類されており、場合によっては強打した場合に反則ポイントとしてペナルティが設けられている…、といった内容になっております。

 しかし、試合というものは空手がもつ趣旨や歴史、もしくは各技がもつ意味をよく理解し、その鍛錬の成果として公的に認め評価するべき場としての位置づけを考えた場合、このルールには疑問を抱かざるをえないというのが私個人の意見です。

 たとえば、組手で高く評価できるとされる技(つまりポイントを高く設定されている技)というもののうち上段の蹴り等といったものがありますが、これらは実戦の場では相手に対して無理をした姿勢での攻撃技であることから決定的な打撃力をもちません。

 しかし、かの船越義珍先生も空手道修練の場において、蹴りというものはできる限り低い場所でこそ破壊力が発揮できる技であることを論じておられ、それは私どもの練習場面でも納得のいく理論として完成されております。

 これらのことを例として考え合わせながら各規定を読んでおりますと、高い場所(つまり目立つ)場所への攻撃行為に対しては高い評価をし、実戦的な技に対してはあまり高く評価されないといった傾向が出ており、まして強打した場合にペナルティがあるなどということは、はたして正しい空手の理論なのかどうか…、といったことに疑問を持った次第です。

 言うまでもなく、本来の空手とは琉球王国時代に一般住民への侵略や略奪行為に対しての防御手段として形勢された側面といったものを考えてみますと、ひとつの例として上記にありますような規定では、本来の空手の趣旨や目的といったものを見失ってしまうのではないか、さらに発展して考えれば空手本来がもつはずの潜在的な能力を殺してしまい、空手が空手でなくなるということにつながっては来ないかということに危機感を感じざるをえません。

 たしかに、空手というものが一般的に広く認知され親しまれるのは良いことでもあるとは思うのですが、それがために空手が本来もっている生活の場での護身手段としての実用性といったものを考えてみますと、かえって、そういった規定や大会が広まることで意味のない技に狂奔する風潮が発生しているように感じられます。

 各種ニュースでも報じられておりますとおり、さまざまな場面で理不尽以外の何物でもない暴力や略奪行為が横行しているこの時代において、スポーツとしての空手を偏重するあまり、本来ならばもっとも守るべきものであるはずの人間の身というものを軽視しイベントとしての発展性のみを重視している姿勢には、私個人としては強い疑問をもっているのですが、管理人さまはこのような現象に対して、どのようなお考えをお持ちでしょうか?

 ちなみに私は道場で技について聞かれたとき、私なりに思うことを添えて、試合で評価される派手な技よりも、地味であっても実践的で生活に役立つような技のほうを修得すべきであると話をすることがあります。

 それは私なりに考えたところでは、最低限のこととして自分の身を、または家族や友人の身を守れるような技なり力なりを見につけることを前提に修練を重ねるべきではないかと思うからで、「100回の試合に負けるよりも、たった1回、強盗されたりレイプされたりといった場面に遭遇するほうが、その人にとってはるかに深刻な影響を及ぼすのです。

 ですから、そうならないように訓練をしておくことのほうが重要だと私は考えていますから、そのように説明し訓練を勧めることにしています」という意向があることをご理解いただければと思います。

 私事で恐縮ですが、私にも生後11ヶ月になる娘がおりますので、その娘の身の安全というものを私なりに考えるようになったこともありまして、上記にありますような意見を強く持ったということもあります。

 以上の点について、管理人様のご意見をお聞かせ下さい。


<回答>

 いろいろな意味で深く考えさせられる良いご質問であると思います。敢てズバリと答えさせて頂くと次のように言うことができます。


一、本来、異質なものを同じ土俵で比較しているということ。

 いわゆる「武術空手」と「スポーツ空手」はその思想と技法面において全く異質なものです。前者の本義は「人殺しの技術」であり、後者の本義は「レクレーション・レジャー」の範疇であります。

 そのゆえに、まさにご質問者さまご指摘のように『スポーツとしての空手を偏重するあまり、(…)イベントとしての発展性のみを重視している姿勢』はむしろ当たり前の方向性であり何ら疑問はありません。むしろ、そのことに疑問を抱かれるご質問者のお考えに私は疑問を感じます。

 また、当然、後者には審判やルールは必須ですが、前者にはそのような概念は存在せず「何でもあり」がその想定の対象となります。

 孫子の曰う『詭道』<第一篇 計>はもとより両者にありますが、後者のそれはあくまでもルールの範囲内で許されるという制限つきですが、前者のそれは(何でもありのため)無制限ということになります。

 要するに、質の違うもの同士を、同じ土俵で議論すること自体にそもそもの問題があるいうことです。月とスッポンは確かに(どちらも丸いので)形は似ています。が、しかし同じ物でないと言うことです。

 例えて言えば、空手とテコンドーの違いの如しであります。テコンドーは松濤館流空手から派生した言わば空手の変形であることは論を俟ちません。しかし、だからと言って、松濤館流空手の立場からテコンドーの技法内容を是か非かなどと論(あげつら)って見ても無意味です。両者は全くの別物としてそれぞれ市民権を得ているゆえに自ずから各々の評価基準も異なってくるのは理の当然だからであります。


二、思想面における武術空手とスポーツ空手の違い

 中国拳法を修行されいるある方は次のように論じておられます。

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 もうひとつの誤解はカンフー=中国武術が打撃系の格闘技という狭いくくりで捉えられているところです。

 時折サイトなどで「空手やキックボクシングと中国武術が戦ったらどっちが勝つのか?」といった話題を目にするのですが、私なら「ピーター・アーツ、武蔵クラスでも数秒から十数秒かな…」と答えるでしょう。この記述だけを見たなら「ハァ??なに寝言を言ってるんだ?」と思う方がほとんどでしょう。

 少しあまのじゃくな言い方をしましたが、それが中国武術という範疇において語られているなら、「武術=格闘技」ではなく、あくまで「武術=人を殺傷せしめるあらゆる術」という前提においてならそれほど大袈裟な表現ではないと思います。

 そもそも武術とは中国大陸において古代より戦乱の時代を経て確立された様々な戦闘技術のことで、主なものでは刀術、剣術、槍術などがあり特に槍術は戦において最も多く用いられ技術的にも非常に変化に富み「兵器の王」と称されます。変わったところでは三本の短い棒を連結した三節棍やロープの先に付けたナイフを次々に敵に飛ばす縄?なども中国では比較的ポピュラーな武器術です。

 もちろん拳術も武器を持たない場合の戦闘技術として武術なのですが武器術の確立に比べれば時代的にかなり遅く、中国では現代においても武術を学ぶのであれば拳術のみでなく数種類の武器術を学ぶのは常識です。

 ちなみに前述した「空手やキックボクシングと中国武術が戦ったら…」に対する答えも「刀や槍を用いて」という前提での事なわけで誤解ないように。
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 中国拳法の流れを汲む空手もその思想は本質的には全く同じであり、琉球古武術と武術空手とは表裏一体・車の両輪の関係にあります。とりわけ、琉球古武術の究極の目的は、(八種の武器の使用という固定観念を解き放ち)周囲にある物、状況をいかに活用するかということに尽きます。その意味では彼の孫子兵法と同根同質なものであります。

 以前、大阪府寝屋川市の小学校に刃物を持った男が侵入し、居合わせた教職員を殺傷するという痛ましい事件がありました。

 兵法的に言えば、相手は一人、こちらは多数、遠くに設置してある使えもしない「さすまた」をわざわざ取り行く暇があれば、目配せ一つで一斉に灰皿・椅子などを投げつけ、怯むところを机で挟みつける、あるいは机で壁に押し付けるという制圧の方法を取るべきであったと考えます。

 刃物に対して身を守るということは(刃物に弱い)肉体たる空手を使うことではなく(それは止むを得ない最後の手段)、まず智恵を使い周囲の器物を活用するということであります。刃物は、肉体の動脈を切り裂き致命傷を負わせることはできますが、器物は切れないという理屈であります。

 あるいはまた、スポーツ空手においては、一対一で戦うように見せながら、実は試合場の周辺に百人ぐらいの人数を伏せておき、一斉に飛び掛るような『詭道』は有り得ません。しかし、武術空手においては、そのような『詭道』は当然有り得るわけです。

 彼の宮本武蔵と吉岡一門との洛東「一乗寺村」下り松における戦いを見ればことの道理は自ずから明らかであります。


三、技法面における武術空手とスポーツ空手の違い

 たとえば、突きの場合、前者は「腰切り・呼吸・丹田・肩の力・拳の返し引き・体の浮き沈み」など複数の要素を一瞬に連動させて全身の力を使います。

 もとよりその形はいわゆる空手ですが、一瞬の動きの形だけを取り出せばボクシング的な技法とその本質を同じくします。

 また、(人殺しの技法という意味での)残心の意味が分かれば、当然、極めた拳をスポーツ空手のごとく素早く腰に引くなどという所作は有り得ませんし、(初心者はともかくとしても)受けた手を腰に引きながら片方の手で攻撃の突きを出すなどということも論外です。要するに、左右別々に動かすのが武術空手の基本です。

 さらに言えば、伝来の空手の回し蹴りが三日月蹴り気味に帯下の下段しか蹴らないのは、金的の防禦と(致命的なミスとなり兼ねない)足取りを拒ぐ意であります。

 言われているように、『(上段の蹴りは)無理をした姿勢での攻撃技であることから決定的な打撃力を持たない』、あるいは『蹴りというものはできる限り低い場所でこそ破壊力が発揮できる』からではありません。

 打撃力の有無の問題ではなく、一瞬の油断が文字通りの「命取り」となる実戦の場においては、何よりも安全かつ危険性のない蹴り方が秘訣なのであり、そのためには平素からそのような思想・所作を習慣化することが肝要であるというのが本意です。

 逆に言えば、金的蹴り・金的打ちが禁止されているムエタイなどではいくら上段回し蹴りをしても危険性はないというわけです。あるいはまた、某カラテ流派の競技ルールのごとく、手による顔面への攻撃が禁止されていれば、その意味での顔面の防禦は意識する必要がないということになります。

 武術空手の場合、そのような禁じ手は一切無いという想定の下で技法が組み立てられているので、スポーツ空手のやり方とは自ずから異なったものとならざるを得ないと言うことになるのです。

 孫子はこのことを『兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり。』<第一篇 計>と断じております。つまり、命の懸かっている戦争はスポーツや娯楽・レジャーではない、オモチャでもなければ、戯(たわむ)れにやることでもないという意です。

 ここでは、「兵」は実戦、「国」は個人、「死生の地」は命のやり取りの意と解してください。「察」は遠謀深慮の意です。武術空手の技法はこのような兵法的思想をバックポーンにしているものであり、そこにスポーツ空手との本質的な違いがあることをご理解ください。

 それはさておき、スポーツ空手は(一般的には)手・腕だけの突きという感が否めず、いわゆる振り付け的に所作が決まっていればそれで良しということになります。伝来の意味での腰切りや間合いの思想が無いため、(全身の力を使って相手を倒すという意味での)ボクシング的な打撃の形が見られないということであります。

 体全体の力を仮に「十」とすると、手・腕だけの突きではどんなに頑張っても限界があるし(肘を痛めるのが関の山)、精々「一か二」位の力しか出せないのが道理です。
 武術空手は、いかに全身の力を出すかをその本義とするものでありますから、(理論的にいっても)少なくとも「五や六」の力は出せるということになります。

 この力の差を中国拳法などでは「発勁・気」などと称しているようです。しかし、そのような虚仮(こけ)脅し的な表現はともかくとして、理屈から言っても当然そのような力は(できる能力のある人は)誰でも出せるということであります。当然のことながら、いわゆる「寸勁」も同じ理屈であります。

 また、空手と武器術とはそもそも一体両面・車の両輪の関係にあるゆえに、本来、空手ができれば(空手と密接不可分の武器たる)棒・釵・ヌンチャクなどは当然に使えるはずであります。しかし、実際問題として、スポーツ空手の動きをそのまま武器術の動きに転用するにはかなり不自然であり無理があると言わざるを得ません。

 例えて言えば、ボクシングの選手が(空手の武器たる)棒・釵・トンファー・ヌンチャクなどを操作するがごとものとも言えます。

 当道場でもスポーツ空手の経験者が武器を稽古されておられます。とりわけベテランの方ほど、上記の矛盾・落差について「今更ながらその意味を思い知らされた。それにしても、これまでの空手に対する理解は何だったのだろう」とまさに悔悟の念をもって認めざるを得ないのが実情です。


四、武術空手を修得するには一定の思考力と武術的な資質が必要である。

 極論すれば、スポーツ空手は誰でもできる性質のものでありますが、武術空手はある程度の思考力の高さと武術的な資質が要求されます。

 かつて、ある中国人の女性から、空手を教えて欲しいという申し出がありました。私が「お国には中国拳法という立派な武術があるのでそちらを学ばれ方が良いと思う」とアドバイスしたところ、「良いのは分かってるが、あれは難しく時間が掛かる。その点、空手は簡単そうですぐ強くなれそうだから」と答えました。

 それまで私は、ご質問者さまと同じくスポーツ空手のようなやり方は、(空手の本質の追求という意味で)百害あっても一利無し、と考えておりましたが、彼女の言葉を聞き「なるほど、スポーツ空手にはそのような効用があったのか」と改めて認識を新たにした次第です。

 言い換えれば、空手人口の間口を広げるという意味ではスポーツ空手は必要だということです。

 逆に言えば、既にスポーツ空手という入り口を通過し社会人となっている人は、本来の空手修行の目的たる空手の本質を追求するという原点に立ち返り、然るべき時期に古伝空手・琉球古武術の道に入るが自然の流れであると考えております。

 本来、兵法は神道や仏教などの宗教、あるいは儒教や特定のイデオロギーなどと異なり、それらを包括した言わば中性的(例えばお金のごとき性質)な思想であり、右も左も上も下もありません。置かれた状況をいかに活用するかをその真骨頂とするものであります。

 その意味で、古伝空手・琉球古武術も全く同じであります。何が伝来の空手の本質か、それを真摯に追求するものであり、流派とか会派とかは本質的に無縁であります。

 思うに、ご質問者さまのストレスの根本は、失礼ながら、ご自身が武術空手とは何かについて、(もとより断片的な知識はおありでしょうが、体系的・全体的という意味で)ご存知ないことにあると愚考いたします。

 書かれている試合ルールの内容は、武術空手の本質が分かれば、(同じ円形ではあっても)月とスッポンは違いますから、「あ、そう」としか言いようの無い、どうでも良いことだということに気が付くはずだからであります。目くじらを立てて議論する内容ではありません。

 社会を生きるという本義の第一は、生活の基盤たる自身の職務に精励すること、第二に、生きている証したる魂の充実を求めるべく、自身の人生で追求すべき真に価値あるものは何かを見極め、その価値追求に邁進することです。

 例えば、余命幾ばくも無い末期ガンの歌手や役者が死を恐れずに最後まで己が舞台を全うするがごとしであります。我々も空手の道においては斯(か)くありたいものです。

 そのための勇気と決断力を培うために日夜、武道に精進するのであり、(武術空手に不案内という意味での)分けの分からない者同士が「寄らば大樹」のごとく集まって、お互いに傷口を舐め合い、時には誹謗中傷し、「群盲、象を評す」がごとき空手談義に花を咲かせるためにやっているのではありません。

 老婆心ながら、武道の本義は、勇気です。競技空手の場ではともかく、実生活の場で真の勇気を失えば、人生のすべてを無くすというものです。


<ご質問者さまからの返信>

 明快なご回答ありがとうございました。「武術」という表現をもって解説いただき、ご回答を読み進むにつれ自分の知識の浅さに恥じるばかりです…。

 本来ならば武道というひとつの道をもって万人にも勝る思考力を持つよう精進すべき立場にありながら、それがかえって狭い視野となっていることに気づかずに進んでいました。

 再度、基本に立ち返って考えを整理し、これからも精進してまいりたいと思います。管理人さまのご回答により、目が覚めた気がしました。

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