第9回 空手にまつわる珍説・迷説・俗説について2008.5.6
<質問>

 インド・中国・日本にまたがる武術史において、重要な役割を果たしたのが仏教僧だといわれます。沖縄が中国から北派小林拳を導入した時、仏教僧が何か重要な働きをした、もしくは、武術と同時に仏教が沖縄に移入されたという史実はあるのでしょうか。

 また、そもそもインドから中国に禅と武術を伝えたといわれる達磨さんは、沖縄の文化の中で、何か象徴的な役割を果たしていますか?近代化以前の沖縄に、剣禅一如という思想があったのか興味があります。


<回答>

 一般的に言えば、自己防衛の本能的行動たる武術は(その性質ゆえに)原始時代から既にその萌芽があり、やがて人間社会が組織化され、国家が形成されたときには武術もまた軍事技術の一環として成立していた考えられます。

 ところで、現在確認されている中国最古の王朝は紀元前千七百年に建国された「殷(いん)」でありますが、このころには武術はすでに相当発達した段階にあったことが明らかになっております。

 一方、仏教の中国への渡来は紀元前二世紀ごろのこととされ、古代殷王朝の成立から実に千五百年後のこととなります。このころ中国は春秋戦国時代を経て秦帝国に達する時代であり、軍事技術(その一環としての武術)は長足の進歩を遂げ、基本的には近世まで共通する基盤が確立されていたのであります。

 逆に言えば、仮に仏教僧が(インドからの)武術の伝播に何らかの役割を果たしたとしても、その内容に見るべきものがあったかどうかは(上記の理由により)甚だ疑問と言わざるを得ません。


 また、沖縄では14世紀の初めごろ(鎌倉時代後期)、本島を三分して山北(さんほく)・中山(ちゅうざん)・山南(さんなん)の各勢力が鼎立する戦乱の時代を迎えておりました。

 1337年、推されて中山王となった浦添(うらじお)按司・察度(さっど)は、武力の強化を隣国・明に求め入貢しました(1372)。当然のことながら、これと競うかのごとく山北・山南も入貢しました。その回数は、中山が52回、山南が18回、山北が9回と記録されています。

 この時代、少林寺は歴代の中で最も武術活動の盛んな時代であり、境内における武術訓練が日常化し、「仏に礼しては兵を論ずる」と評されるほどでした。その軍事活動も自衛にとどまらず、政府の要請を受けて中国各地の辺境に出生するなど夙(つと)にその武名(とりわけ少林棍)が鳴り響いておりました。

 いわゆる富国強兵のために朝貢した軍事的弱国たる中山・山南・山北が何らかの形で少林寺武術(とりわけ棍法)の伝播を受けたと解するのが適当であります(ただし、どのような形で伝播されたのか等については余りに資料が不足していると言わざるを得ません)。

 この三山鼎立の戦乱の状態は長く続きましたが、やがて尚巴志(しょうはし)が歴史の舞台に登場し、1429年(室町時代中期)、沖縄最初の統一王朝が樹立されたのです。

 一般的に、武術は動乱期に発達し、その直後の安定期に体系化されると謂われております。琉球古武術・古伝空手もまたそのような歴史的経緯を経て体系づけられたものと考えられます。


 巷間、実(まこと)しやかに語られるものの一つに、「沖縄の空手は薩摩の圧政に抵抗する農民のゲリラ的闘争の中で編み出されたもの」などとする珍説・迷説・俗説がありますが、これは真っ赤なウソ、全くの虚構であり、そのような史実も根拠もありません。

 いわゆる為にする(ある目的を達しようとする下心があってことを行う意)言説の類と言わざるを得ません。

 そもそも、佐渡島より一回り大きい程度の沖縄本島で何ほどの武力闘争ができるというのでしょうか。益してや、沖縄支配のために常駐していた薩摩藩の軍兵は三百人前後と謂われております。たとえば、捕り方に追われた彼の侠客「国定忠次」は、広大な赤城山に逃げ込みましたが、その所在はほどなく突き止められ、「名月、赤城山も今宵限り」の名セリフを残して退散を余儀なくされております。

 ことがまだ中央政府の統治力が弱い奈良・平安時代ならともかく、徳川幕府によって天下統一された幕藩体制下でそのような革命もどきの武装蜂起が許されるはずも無いと考えるのが通常です。況んや、武器を用いず「素手・空手」で鉄砲や刀槍と戦ったと真顔で言われても、凡人の頭はただ困惑するのみであります。

 要するに、広大無辺の中国大陸を舞台とする水滸伝や三国志の世界を(薩摩の圧政と重ね合わせた)能天気なマンガ劇作家あたりが、空手よ斯(か)くあれかし、の願望をもって単純に沖縄に当て嵌めただけの荒唐無稽な作り話に過ぎません。

 普通の知性で考えればそれが信じていいことか、信じてはいけないことなのかの区別はつきそうなものなのですが。俗に謂う「鰯(いわし)の頭(かしら)も信心から」とはまさにこのようなことを言うものであります。


 最後に、「中国禅宗の開祖」とされる(いわゆる面壁九年の故事の)ダルマ大師はあくまでも伝説であって史実ではないと学者は言っています。それによれば、中国禅宗の開祖という意味でのダルマ大師の生涯・思想とも未だ不明確で定説として確立された伝記は一つも存在しないということです。

 況んや、少林寺における「ダルマ大師少林拳開祖説」は単なる伝説・虚構の類であり、従ってまた、(そのような意味での)沖縄との係わり合いも有り得ないということになります。

 因みに、日本への仏教渡来は538年とされておりますが、沖縄に関しては寡聞にして知りません。

 ついでに言えば、禅宗は中国仏教であってインド仏教ではありません。中国古来の神仙思想や道教、儒教などの風土的特色を加味して成立したものであります。

 古代以来の分厚い伝統をもつ仏教の教説、とりわけ、現世と来世にわたる因果応報説に対して、(現実主義的な中国思想の立場から)来世を否定し現世における一大事、即ち生死の道を明らめようするところにその特色があります。

 日本の武士が禅宗に傾倒したのはまさにそのような理由です。その意味では「剣の道」も「禅の道」も一如(異なるものではない)ということになり、その辺の事情は日本の武士も、(武術の道を窮めんとする)沖縄のサムライも何ら異なるものではない、と解されます。

 ともあれ、ダルマ大師は単に禅宗の開祖、あるいはまた少林拳の開祖として仮託されたものと解するのが適当であります。


 第8回  孫子に代表される兵法的思考を学ぶ意義2008.5.3
<質問>

 彼の楠木正成は、雲霞のごとき大軍をもって押し寄せる鎌倉幕府軍に対し、当時の武士としての常識と慣習の裏を打つ策略、即ち、詭道の数々をもって大阪・河内の千早赤坂での籠城戦を行い、結果的に鎌倉幕府の崩壊という奏功に与(あずか)りました。

 ここで思うに、意外といわゆる武道家(と称する人)によくあるパターンとして、まさに楠木正成とは正反対の実に凝り固まった思考癖が散見されます。

 たとえば「俺は柔術家だ!」「俺は空手家だ!」「俺は剣術家だ!」とかいうような(真の兵法を知らないがゆえの空想的思い込みとでも言うべき)自負心です。

 とは言え、このようなことが言える間は、常識と慣習に従って、構える余裕のある時ですから、命に別状はないものです。しかし、そうでない者たちを相手にして、そうでない時と場合にどう処理するか、それを適切に解決する知恵と方法に関わる重要ポイントが、孫子兵法と習得武術との関連性の一点に集約されていると思います。

 このゆえに、上記のごときいわゆる武道家が「きちんとした兵法を学ぶこと」とは、自分が修練している武術を本当に現実の世界で開花させ、本物に変化させる必須条件になってくるものと思うのですがいかがでしょうか。


<回答>

 御質問者さまの言わんとされている所は、つまるところ、いわゆる「得意技」とそれに関わる彼我の状況判断の在りよう、言い換えれば、彼我、どちらの頭脳がより創造的かという問題に帰着すると思います。

 兵法とは、別言すれば、存在する物(状況を含む)自体の本質や構造を究明することではなく、そこに内在する機能を探って活用するに足りる用途を発見することにあります。

 その意味では、まさに「勝利のための固定した原理などはない、あるのは利用すべき状況だけである」ということが言えます。

 例えば、彼の長篠合戦において信長が応用した馬防柵・土塁・空堀・鉄砲(三段打ちを含む)」はそれ自体は何の変哲もないものです。しかし、これを武田軍の得意戦法という状況を踏まえてどのように組み合わせて活用すべきか、というところに信長の創造性・革新性があるわけです。

 同じことは、彼の巌流島の決闘の場合にも言えます。武蔵は小次郎の得意とする(物干し竿と称される)長刀の長さをいかに制するか、同時に(文字通りの)その飛燕の早業をいかに封ずるかということであります。

 その思索の結果が(謂われているところでは)小次郎の心の動揺を誘う意図的な遅刻であり、さらにそれを増幅させるために発した「小次郎敗れたり」の言葉の使い方であり、また、(長刀の長さを制するための)櫂を利用して作った長大な木剣であったわけです。

 とは言え、個人技たる武術を駆使しての武芸者同士の戦いは、言わば「小の兵法」とでも称すべきものであり、武蔵が勝とうが小次郎が負けようがただそれだけのことであり、もとより一軍の勝敗、ひいては国家の存亡・国民の死生に影響を及ぼすような大事ではありません。

 昔日のサムライが武芸十八般を稽古した真の理由は、(それによって個人的な勝ち負けを争うためではなく)戦いの雛形を学問として学ぶことにより実戦の感覚や考え方を体得し、本物の戦争に備えるためです。

 そのような、言わば「大の兵法」という意味で孫子と武術との結びつき、たとえばご質問の「得意技」とそれに関わる彼我の状況判断の在りよう考えることは実に有意義なことと考えます。孫子はあくまでも将(リーダー)の学問であり、一兵卒用のいわゆるマニュアルではないからです。

 もとより孫子はあらゆる局面に有効な思想でありますが、ここでは敢て上記の観点に止めておきます。

 さて、既に述べたように戦いにおいてはまず彼我の状況を的確に把握すること、次に事の本質を洞察することであります。そのためには(固定観念や先入観などの)いわゆる色メガネを外した柔軟な思考力と自由な精神を保持することが肝要です。

 しかし、人間は欲望の塊であり、感情の動物でもありますから、いざことに臨んだ場合、中々、適切に対処できないのが一般的です。孫子はこのことを『将の五危』<第八篇 九変>として論じています。一兵卒(国民)の場合はともあれ、いやしくも将たる者(リーダー)はそれでは不可だと曰うのであります。

 色メガネで見た些細なボタンの掛け違いに気が付かないでいると、やがては取り返しの付かない事態を招来するというのであります。『諸侯、その弊に乗じて起こり、智者ありと雖も、其の後を善くする能わず。』<第二篇 作戦>とはまさにそのようなことを曰うものです。

 そうなる前にそうならないように適切な手段を講じていれば、たとえば「北朝鮮の拉致問題」や「竹島問題」、さらには「東シナ海ガス田問題」などは自ずから別の展開となっていたはずであります。問題を先送りし、ことがこじれてからあれこれ策を弄しても後の祭りということになります。

 視点を変えて言えば、太平洋戦争に敗北したそもそもの萌芽は、日本が日露戦争で世界最強のロシアに勝利したというその「驕り」に見出すことができます。この「驕り」が「柳の下にいつも泥鰌(どじょう)はおらぬ」という謙虚さを失わせたものと言わざるを得ません。


 また、日本が初めて体験した近代戦としてのノモンハン事件(1939年)では、ロシア軍の圧倒的な砲火と戦車の前に日本軍はなす術も無く壊滅的な敗北を喫しました。

 日本軍の歩兵・戦車・砲兵ともに明らかにロシア軍に劣っていたにも拘わらず、軍中央はその事件研究を無視したのです。日露戦争以来の得意技たる「白兵銃剣突撃」戦法を過信していたからに他なりません。その結果がどのような惨状を招来したのかはまさに戦史の示す通りであります。


 同様なことは、日本が世界に先駆けて演じて見せたマレー・ハワイ沖海戦における航空機作戦の勝利についても言えます。その状況をじっと観察していたアメリカ軍は、これからは、まさに空母が主役の時代と洞察しそれを踏まえての鉄壁の得意技を開発したのです。

 そのパイオニアたる日本はそれに気が付かず日露戦争以来の得意技たる「大鑑巨砲・艦隊決戦主義」を墨守して敗北への道を転げ落ちて行ったのです。


 日本軍の戦争指導者は、将たる者が絶対に陥ってはならない「先入観・固定観念の奴隷」と化していたと言わざるを得ません。「大の兵法」という意味で得意技と武術の関係を論ずる所以(ゆえん)であります。


 余りに硬直した馬鹿げた思考の戦争指導によって、原子爆弾を二つも落とされ、主要都市は焼け野原にされ、実に310万人もの日本人が犠牲になったのです。

 これほど貴重な血の教訓を得ながら「なぜ負けたのか」の原因追究はもとよりその責任を感じようともしない日本のリーダー、民主主義国家としてそのようなリーダーを選出している選挙民とは一体何なのか、実に理解に苦しむところです。

 況(いわ)んや、そのアメリカに心酔してポチのように尻尾を振り、51番目の州になりたいなどと夢想する小泉元総理のごとき政治家はまさに国賊ものであります。

 そのような軽佻浮薄な似非(えせ)愛国者がいかにも愛国者のような顔をして(自己保身のための単なるパフォーマンスとして)靖国参拝を繰り返すこと自体が、靖国の英霊たちを冒涜しその心情を踏み躙る行為であることを我々は知るべきであります。


 昭和天皇は敗戦の原因の第一に、戦争指導者が孫子の『彼を知り己を知れば、百戦殆うからず。』<第三篇 謀攻>という根本原理を体得していなかったことを挙げておられます。

 因みに、クラウゼゥイツ兵法に固執していた日本軍は孫子を顧みることは終にありませんでした。孫子は軍事技術のマニュアル本ではなく、深遠な戦争哲学を説くものであることをその硬直した思考では理解できなかったのです。


 「前車の轍は踏まず」であり、我々が孫子と武術を学ぶ目的はまさにことに臨み真の思考力と不撓不屈の精神を発揮するためと考えます。これ無くしていわゆる武術を学ぶ意味はないと考えます。単に相手に勝つことを目的とするのであれば、(非効率的な殺傷技法たる武術的なやり方ではなく)効率的な銃火器を使うか、はたまたスポーツ競技として昇華させるかの孰(いず)れかであります。

 とは言え、いやしくも、一国の首相たる者が「靖国参拝は個人の心の問題だ」などと意味不明の馬鹿げた言質を弄しても、「さもありなん」としたり顔をして平然と見過ごしている(思考力という意味での)知的レベルの低い国民性ではそのようなことを論ずること自体、何やら空しい感、無きにしも非ずではありますが。


 第7回 ピンアンと平安の違いから見えてくるもの(三)2007.5.3
五、日本本土に移入された空手は本当に「隠されていた」のか

 このテーマは、日本の一地方武術として独自の発達を遂げた空手が、スポーツとして世界に雄飛し隆盛を極めている現象を分析する上で極めて興味深いものがある。言い換えれば、いわゆるピンアンの型から平安の型への改変は、ある意味で空手が世界に名を轟かせた最大の原因と言えるかもしれないのである。


(1)糸州安恒作成のピンアンの型は本当に「体育空手」だったのか

 今もなお、沖縄の空手界においては「首里手は糸州の手によって体育空手になった。体育空手を体操に変えて本土に伝えたのが船越義珍である」との見方が根強く残っているそうである。

 とかく人の世は成功者を妬み羨むものであり、嫉妬の感情は誰しもが持っており沖縄の人とて例外ではない。とりわけ、糸州安恒は拳聖とまで謳われ、船越義珍は「近代空手道の父」と称されている。通常の人間社会であれば、上記のごとく成功者を誹謗中傷するものがいるのは蓋(けだ)し当然のことである。

 しかし、そのような言を真に受けるかどうかは、まさしく人間としての知性の問題である。とりわけ人間の評価は、言葉をもってするものではなく、その人の行動をもって判断する方が事実に合致する場合が多い。

 その意味において、糸州安恒作成のいわゆるピンアンの型は、縷々(るる)述べてきたように、まさしく伝来の空手の武術性を具有するものであり、それについて何ら疑いの余地はない。のみならず、これをキチンと解釈できれば武術空手の何たるかが分かるほどの優れものである。

 このピンアンの型が、日本本土において平安の型に改変された時点で、まさに空手は武術空手からスポーツ空手・体育空手に変貌を遂げたということなのである。その意味で前出の沖縄空手界の批判は、半分は正しくて半分は見当違いということになる。


(2)沖縄伝来の武術空手は本当に「隠されていた」のか

 (松濤舘流の)平安の型に限定して言えば、確かに武術空手は伝えられなかったと言える。が、しかし、それは特に意図的に「隠されていた」という意味ではなく、そもそも武術空手の何たるかの理解が不十分であったことに起因するということである。

 然らば、日本本土には、いわゆるピンアンに象徴される武術空手は伝わらなかったのであろうか。答えは明らかにNO、である。なぜならば、東京で空手の本格的普及に乗り出した船越義珍と相前後して実戦空手家と謳われた本部朝基が上阪し、やや後れて宮城長順や摩文仁賢和など沖縄の錚々たる空手家が本土に渡ってきたからである。つまり、廃藩置県を境として、いわゆる空手の「秘密伝承時代」は終わりを告げていたと言うことである。

 少なくとも、本部朝基の組手型写真などを見る限りにおいては、まさしく武術空手を示していると言わざるを得ず、とりわけ、他に先んじて「琉球拳法唐手術・組手篇」や「私の唐手術」を著していることなどから推して特に「隠して」いたわけではないと考えられる。多かれ少なかれ、その辺の事情は宮城長順や摩文仁賢和の場合も同様であったと解される。


 縦(よ)しんば、百歩譲って、(船越義珍はさておき)本部朝基・宮城長順・摩文仁賢和の三師が故意に武術空手を隠したとしても、当時の門弟たちが武術空手について知る機会を失ったとは言える可(べ)くもない。

 その好例が、『第六回 (その二)』で引用したごとく、東大生の三木二三郎・高田瑞穂の両氏が敢て空手の本場・沖縄に渡り、当時の有名空手家の元を次々と訪れて直接教えを受けているという事実である。

 彼らの最大の動機は、『もはや船越義珍の指導では納得が行かない。この上は直接沖縄に渡って本当の唐手術を学んでこなければ話しにならない』とするにあった。

 突然の訪問者である彼らがとりわけ歓迎されたとは思えないが、さりとて教えを乞われた有名空手家達がそれを拒否した訳ではなく、基本的には受け入れている。後に彼らが著した「拳法概説」はそのことを雄弁に物語っている。有名空手家から入手した情報が有ったから書けたのであり、情報が無ければ書けないのが道理である。

 然らば、彼らが、それほどの意欲と情熱をもって追求し、稽古したであろうその武術空手はその後、日本に根を下し適切に伝承され今日もなお稽古されているのであろうか。もとより答えは明らかにNOである。

 ここで明らかに言えることは、武術空手を体で覚え、これを伝承するということは一朝一石にできるものではないということである。そこにはいわゆる「運」を含めて様々な条件・要素が介在するため、その全てが出揃って初めて実現するということである。

 仮に、上記の二名の東大生が真に武術空手をものにしようとすれば、少なくとも十年は沖縄に止まり修行することが求められる。しかし、超エリートたる当時の彼らを取り巻いていたであろう諸般の情勢から言えば、そのような空手修行など許されようはずも無い。すべての条件・要素が出揃って初めて実現するとは例えばそのようなことなのである。

 これに対し、スポーツ空手は簡単で誰でもできる。(競技に勝つか勝たないかはともかくとして)初心者が二〜三ヶ月、突き蹴りの基本を稽古すれば一応、競技には出られるということである。それに比べて、武術空手の習得は容易ではないということである。

 また、スポーツ空手はある意味で効果が現れ易く、ゲーム感覚で面白いが、武術空手はある意味で効果が現れにくく、真の面白さが分かるまで時間が掛かる。まさに「型一つ三年」と言うのもそのような意味合いであり、すぐに効果を求めたがる人はその苦しさに耐えられないということになる。


 以上の点を踏まえて言えば、問題は教える人が伝えなかったのではなく、一応、(それなりのものは)伝えたのではあるが、(武術空手の習得の難しさという特質のゆえに)よく伝わらなかったということである。

 そもそも空手の型は、(古人の知恵として)外形から見て簡単にその技法が分からないように作られている。然(しか)らば、(上記のごとく単に)その説明を受ければ直ちにそれが体得に結びつくのかと言えば、もとより、ことはそれほど単純ではない。


 言い換えれば、武術空手の本質が真に理解できたか否か、(理解できたとしても)その教えの通りに稽古したか否か、(稽古したとしても)その体得に至ったか否か、ということである(蛇足ながら、その三要素をクリアし、かつ経済的・時間的余裕があり、それを指導できる環境にある人物にして初めてその何たるかが後世に伝えられるものと言わざるを得ない)。

 とは言え、真摯な修行者というものはいつの時代でも少数派であり、かつ、(そのような人材が)常に得られるとは必ずしも限らないということである。


 もとより問題はそればかりではなく、武術空手の体系的な指導法が存在しなかった点にも求められる。たとえば、その一つが「型一つ三年」と謂われるような伝来の沖縄の稽古法である。

 つまり、ある一定のレベルに達するまで、ただひたすら型を繰り返し、巻き藁を突く稽古が中心であり、現在におけるが如く、例えば(その場・移動などの)基本練習、(五本・一本・約束自由一本・自由などの)組手練習など体系的な稽古法が確立されていなかったということである。

 とは言え、縦(よ)しんば、その指導法があったとしても、やはり武術空手の習得は必ずしも容易ではなかった、と言わざるを得ない。



(3)沖縄的武術空手から日本的スポーツ空手への脱皮もしくは変貌

 武術空手からスポーツ空手への脱皮という言わば突然変化(飛躍)の主因は、当時の空手修行者の中心勢力が大学空手部の学生であったという点に求められる。

 言い換えれば、従来の「初めに型ありき」の稽古法では血気盛んな若い大学生たちにはもの足らず、勢い、師の教えに背(そむ)いても自由組手を模索しようとする動きが期せずして同時多発的に起こり大きな潮流となったのである。簡単に言えば、武術空手の稽古は退屈で面白味はないが、スポーツ空手のそれは楽しく面白いということである。

 武術たる古流剣術から竹刀競技(剣道)が生まれたごとく、同じく柔術から柔道が生まれたごとく、空手もまた競技化・格闘技化への道を模索し始めたということである。


 とりわけ、松濤舘流の拓大空手部にあっては、型から主たる基本技を抽出して、その場基本・移動基本の稽古体系を考案し、そこから基礎的な約束組手を、さらに実戦的な約束自由一本や自由一本組手を創出し、その流れにおける必然の帰結として、ついに何らの約束もしないで、精神的・肉体的な対敵動作を発揮して優劣を競う自由組手にまで発展させたのである。

 逆に言えば、松濤舘流の型稽古は、基本練習を補完するための一つの稽古方法として、あるいは基礎的鍛錬の一環として、はたまた競技のための様式美として位置づけられたのである。ここにおいて、武術空手としての本来の型の意味は完全に失われ、恰(あたか)も古代遺跡のごとく形骸化された型だけが残されたということである。

 因みに、武術空手では型にはもとより技の鍛錬法、あるいは様式美としての側面もあるが、その本質的意義は技の宝庫にあると位置づけて、型から様々な技法を取り出して組手稽古に組み入れているので、その意味では伝来の沖縄の稽古法と同じく「型の稽古が最良」ということになる。

 また、拓大空手部の編み出した自由組手に関して言えば、いわゆる「寸止め」ではなく、「寸極め」というのが正確な言い方である。つまり、相手の体表面に一センチ位の空間を仮定し、そこで極めを爆発させるという考え方である。そのゆえに、いくら激しく打突しても理論的には当たらないし、また当ててはいけないのである。

 因みに、武術空手の思想で言えば、打突目標の背後まで突き抜ける態勢をもって止めるのが原則であるため、極めに関する相手との間合いは上記「寸極め」のそれよりはかなり近いものとなる。

 ともあれ、拓大空手部で考案された基本・組手・型の三位一体の稽古体系は、(武術空手的稽古法への反動からか)瞬く間に各流派の大学空手部に広まり、従来の型中心の稽古法を大きく凌駕して行ったのである。

 一般的に、日本における多くのスポーツは大学生の部活動を中心に発展してきた経緯があり、その意味でスポーツ空手もまた同じ道を辿ってその競技化・格闘技化への歩を進めて行ったのである。


(4)武術空手にはいわゆる家元制度というシステムがない

 一般的に、いつの時代でも真摯な修行者というものは少数派である。とりわけ、武術空手の伝承はそのような奇特な修行者の個人的努力によって辛うじてその命脈が保たれてきたという特質がある。つまり、空手にはいわゆる家元制度が無かったということである。日本の家元制度は、まさにそのような伝承の脆弱性・不安定性を補うべく発明された古人の智恵の結晶とでも言うべきシステムである。

 つまり、一定の技能を家元が代々継承して行くということは、もとよりそれ自体が難事業ではあるが、それにも益して、何よりもまず、経済的・時間的に余裕が必要であることは論を待たない。このゆえに、その伝承に利害関係を有する家元制度の構成員がその伝統を絶やさぬよう様々な形で家元を支援するというシステムが考案されたのである。

 沖縄の場合、武術空手の伝統は経済的にも、時間的にも余裕がある、とりわけ上流の武士階級によって(システムとしてではなく)個別個人的に保存されてきたということである。

 蛇足ながら、巷間、空手は沖縄の農民が自衛のために編み出しもの、などとまことしやかに謂われているが、(普通の知性で普通に考えれば)実に荒唐無稽な話しである。そもそも、薩摩に搾取されていた当時の沖縄の農民が厳しい貧困に喘(あえ)いでいたことは歴史的事実である。

 食うや食わずの農民に空手をやる余裕などあるはずもない。譬えて言えば、その日暮らしの不安定な生活を強いられているフリーターや日雇い派遣労働者に向かい、自衛のために、健康のために、文化遺産保存のために空手をやりましょう、と奨めているようなものである。やるはずが無い。それより仕事をくれ、カネをくれと言われるのがオチである。

 また言えば、薩摩藩はドル箱たる沖縄支配のために常時三百人前後の藩士を駐留させていた。この薩摩藩士と戦うために空手が編み出されたと言うが、そのような組織的な武装蜂起の史実など皆無であり、ましてや個人的な事情による闘争であれば、即、打ち首であることは間違いない。それより何より、刀槍に対するに徒手空拳をもってするなどと考えること自体が狂気の沙汰と言わざるを得ない。

 ともあれ、空手移入時の日本も沖縄に負けず劣らず貧しかったことは否めない。だからこそ経済的・時間的に余裕のある階層の師弟たる大学生が空手修行者の中心勢力となったのである。とは言え、その大学生の空手修行年限は長くても四年、加うるに、その大勢がスポーツ空手を志向する状況とあっては真摯な武術空手の継承など望むべくもなく、その累積的結果たる現代の視点でみれば「隠された空手」などと観ずるのも宜(むべ)なるかなである。

 もとより、町道場の一般修行者の中にも、武術空手を追求していた真摯な修行者も少なからずいたことであろう。しかし、伝承の側面たる脆弱性・不安定性のゆえにそのような奇特な存在もいつしか主流たる空手の競技化・格闘技化の大波に飲み込まれて行ったと解すべきである。


(5)武術空手をスポーツ空手の次元で読み解くことには無理がある

 船越義珍の空手の実力に関してはなぜか口を閉ざして語らぬ人も、その人格の高潔さについては畏敬の念をもってこれを饒舌に語る人は多い。筆者もかつて聞いた話ではあるが、あるとき船越義珍が拓大空手部などの学生たちと箱根に遊んだ時、旅館の二階から小便をする者がおり、その飛沫がたまたま通りかかった義珍の着物に掛かったそうである。

 それでなくても血気盛んな学生達は、無礼なヤツと大いに怒り「あの野郎、懲らしめてやります」と飛び出そうとしたところ、義珍は静かに「汚れなど洗濯すればすぐに落ちる。乱暴するほどのことではない。放っておけ」と息巻く学生たちを戒めたそうである。

 いたずらに血気に逸(はや)れば、孫子の曰う『亡国は以て復た存す可からず、死者は以て復た生く可からず。』の事態を招来し兼ねないのであり、それよりも『怒りは以て復た喜ぶべく、慍りは以てまた悦ぶべき』<第十二篇 火攻>ものゆえ、「血気の勇を戒め」「人格完成に務めよ」という趣旨である。まさに松濤舘流の道場訓を地でゆく教訓を垂れたということである。

 それはさておき、空手も武術である以上、その究極の目的は唯(ただ)に己の心を調えるにあることは論を待たない。そのゆえに、沖縄県代表として空手を初めて本土に紹介する適任者たる者は、(空手の実力云々も然ることながら)まず説明のための標準語がキチンと話せ、人格円満・識見に優れ、できれば教育者が望ましいなどの条件が考慮され、結果として船越義珍に白羽の矢が立ったものと推察される。

 その資質のゆえに、船越義珍は講道館柔道の創始者・加納治五郎と親交を結ぶことができ、さらには東京の有力大学を中心に空手の指導を行うまでに至ったのである。言い換えれば、沖縄という辺境の武術たる空手を教育者の立場から紹介したということが信頼性をもたらし人気を博したということであり、そのゆえにまた、その普及発展の場を最高学府たる大学に求めることができたのである。

 たとえば、品性粗野で無教養、人の顰蹙(ひんしゅく)を買うような性格であるが、空手は確かに強くその才能は群を抜く実力者がいたとしても、一般的に、ただそれだけでは素直に受け入れ難いのが人の世の情理というものである。


 時々、船越義珍の空手の実力を口を極めて云々する人がいる。が、しかし、その指摘の多くが見当違いであることは、既述した通りである。逆に、そのことに関し敢て黙して語らぬ人は、船越義珍の真価がどこにあるかを見抜いている人であろう。

 言い換えれば、船越義珍が武術的空手に精通していなかったがゆえに、その門弟たる大学空手部の学生たちは始めから武術という束縛から解き放たれ、自由に近代空手としての競技化・格闘技化の模索にその情熱を傾注できたのである。

 角度を変えて言えば、沖縄の富裕階層における有志的個々人によって細々と伝えられてきた武術空手は、戦争の時代という世情を背景にその効用が別な面から見直されたとも言える。即ち、まず日本海軍によってその体育面の効用が注目され、それを契機としての本土移入後は、船越義珍門下の大学生たちによって競技・格闘技面の効用が注目されたと言うことである。

 空手の競技化ということになれば、自ずからその内容は、突き・蹴りに特化せざるを得ず、その意味では、始めからスポーツ的な突きや蹴りを豪快に繰り出す稽古を得意としていた松濤舘流の拓大空手部においては他を圧倒するものがあったということである。


 本来、武術空手は、突き・打ち・蹴りなどはもとよりのこと、投げあり、逆(関節技)あり、対武器法あり、さらには琉球古武道を併伝する言わば総合武術的性格にその特質がある。

 逆に言えば、(武術的意味での)型は、これらの技の体系を精妙に内臓する優れものなのである。一般に謂われるがごとく、基本習得のための一稽古方法などでは断じてない。それは型の解釈の方法が分からない者の言うことであり、分からないがゆえにそうとしか言いようがないのである。

 しかし、スポーツ空手にとって、突き・打ち・蹴りはともかく、投げや逆(関節技)などの柔術的技法、対武器法、まして琉球古武道などは全くの無用の長物ということになる。

 その「寸止めルール」による空手競技が正式にスタートしたのは昭和32年(1957)のことと謂われているから、いわゆるスポーツ空手の歴史は既に(それまでの揺籃期を除いても)半世紀以上に及ぼうとしている。

 このゆえに、現在の日本において、武術空手の柔術的技法や対武器法、何よりもそのエッセンスとでも言うべき武術的技法と理論が恰(あたか)も失われしまったように見えても蓋(けだ)し当然のことである。

 もとより「隠されていた」わけではない。むしろ主流と化したスポーツ空手の隆盛と発展が、意識的・無意識的に「隠してしまった」というのが真相に近いと解される。このゆえにまた、半世紀に及ぶスポーツ空手の観点をもって武術空手を読み解こうとすることがいかに的外れであるかと言わざるを得ないのである。

 とは言え、この武術空手の体系は、完全に失われたわけではない。かつての沖縄でそうであったごとく、毀誉褒貶のためでなく、唯(ただ)に自己の信念と使命感のゆえに、日夜、その生身を削って稽古し、密かに伝承されているケースもあるやに聞く。


 ともあれ、空手には伝来の武術的空手とそこから派生したスポーツ空手があるということである。この両者の間には明確な一線を画すべきであり、混同してはならないのである。

 当サイトにも、時折、スポーツ空手の視点をもって武術的空手について説明を求めてくる人が訪れるが、そもそも、それは原理的に無理があると申し上げるのを常としている。



(6)スポーツ空手の経験者こそ武術空手を修めるべきである

 蛇足ながら言えば、空手の競技化が始まってまさに半世紀、その意味で空手は今、一つの大きなピークを迎えていると言える。不安な時代背景ゆえに、世はまさに「心の時代」と叫ばれている現在、今度は、武術空手の効用のどの部分に注目が集まるのであろうか、興味の尽きないところである。

 ヨーロッパでは今、武術空手と同根の琉球古武道の人気が大変に高いと聞く。スポーツ空手では得られない、東洋武道の神秘性、精神性、求道的なもの、秘伝的なものに憧れている人が多いゆえだそうである。

 その意味で、遅れているのは独り、空手の本家たる我が日本のみ、と言うのが実情らしい。そのうち、(既にそれらしき兆候もあるが)琉球古武道が逆輸入されて青い眼の先生が日本人を教えるという情けない状況が出現しそうな勢いと聞いている。

 そうなる前に、そうならないように手を打つのが兵法の鉄則であるが、彼の山鹿素行が「本朝、武を以て先と為す」と喝破した武の国・日本の空手人が兵法すら知らないようでは何をかまた況んや、ということである。

 ともあれ、学生時代はさておき、社会人になった以上、武道性を求めていたずらに他武道に転向することなく、本来の武術空手・琉球古武道の修行に回帰するのが最も自然の流れであり、かつ、あらゆる意味で合理的であり、最適の道であることは間違いない。

 とりわけ、スポーツ空手の経験がそれなりにあるということは、見方を変えれば、武術空手にモデルチェンジするための基本ができているということであり、その意味では、(武術空手の要求する)いわゆる「型一つ三年」の条件をクリアしているということになる。

 問題は、既述のごとき日本独特の特殊な状況により、モデルチェンジするための受け皿、すなわち、そのための道筋やそこに至るための理論が用意されていないと(確たる根拠も無く)単に思い込んでいるいうことである。

 もとより、信じる・信じない、右するか・左するかは当人の問題ではあるが、一般的に言えば、(生涯空手と言う意味で)まだまだ意欲もあり、情熱もあり、若さもあるのに(あたかも受け皿がないかのごとき単なる自己の錯覚や誤解によって)ただ徒(いたずら)にその能力を朽ち果てさせてしまうのは実(げ)に口惜しきことである。

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