最近、おや!と思うことがあった。そしてナルホド、そうゆうことであったかと合点がいき、深く感じ入った。きっかけは、5月11日付けの朝日新聞の朝刊紙上で「女子プロレスラーを殴る」「一人はラグビー日本代表」「障害容疑で二人逮捕」の見出しが躍る記事を目にしたことであった。
それによれば、女子プロレスラーを殴ったとして、トンガ国籍で埼玉工業大学二年のラグビー部員、イオンギ・ビビリ・ヘロトウ・ケイ容疑者(20歳)ら二人が傷害などの疑いで逮捕された。もう一人は同じ大学の一年(18歳)で、ラグビー日本代表であるという。
二人は5月9日午前0時20分ごろ、東京港区六本木の路上で、プロレスラーの女性(31歳)の顔を殴り、ケガをさせるなどしたという。この女性と一緒にいた別の女性の腰の辺りを触ったことで口論になったという。二人とも酒を飲んでいたらしい。
この事件にはおまけがついて、そのほとぼりも覚めやらぬ17日、またもや東京・六本木で同じくラグビーの日本代表選手、フィリップ・オライリー容疑者(24歳、三洋電機、ニュージーランド国籍)が高級クラブの店員を殴ったとして逮捕された。一緒にいたルーベン・パーキンソン(32歳)選手も暴れて器物を壊したという。 連続して起きた日本代表選手による不祥事に日本ラグビー協会の指導力が問われるところであるが、それはさておき、先のトンガ2選手と女子プロレスラーの一件にはとりわけ興味を惹かれた。
その理由は多分、女子プロレスラーとトンガ人ラガーマンとのストリートファイトという組み合せにあったのであろう。もとより、詳細は不明であるが、事実としては女子プロレスラーが顔を殴られてケガをし、殴ったトンガ選手はそのまま逃走したらしいがなぜか捕まってしまったということである。
大方の無責任な野次馬的立場からすれば、(新聞報道で知る限り)この異色のストリートファイトにおいて女子プロレスラーが負けて、トンガ選手が勝ったと単純に判断したであろうことは想像するに難くない。昨今、テレビのブラウン管を賑わせているスポーツ格闘技などの勝負観からすれば当然の帰結である。言い換えれば、このストリートファイトがテレビで放映されていなかったくらいの感覚であろう。
とはいえ、事件がテレビで生中継されたいたわけではないから実際の状況はどうであったのかは定かではない。新聞記事はあくまでもその事実の結果を極めて簡潔に伝えているに過ぎないからである。 とりわけ、よく分からないのは殴られた女子プロレスラーは反撃したのか、しなかったのか。反撃した上での結果なのか、はたまた何か理由があって反撃しなかったのか、という点である。
やはりこの事件はかなり話題性が高かったと見えて、日ならずして、テレビの朝のワイドショウに被害者たる件(くだん)の女子プロレスラー氏が出演した。彼女の鼻柱の真中には大きく割れた傷口があり事件の生々しさを伝えていた。
それによれば、加害者たるトンガ人は女子プロレスラー氏も驚くほどの大男であったらしい。男は彼女を殴った後、得意のダッシュで逃げ近くの飲食店にもぐり込んだところを追いかけてきた彼女達に取り押さえられた、というのが真相らしい。
さっそくテレビ司会者が(無責任な野次馬的立場の人間が抱いている)一番の疑問点を質問した。「反撃しようと思わなかったのですか」と。彼女が答えて曰く「全く思っていませんでした」「(素人ではないから)やろうと思えばいくらでもできますが、もしそれをやれば私のプロレス人生は終ってしまうからです」と。
失礼ながら、血の気の多そうなご面相の女子プロレスラー氏から極めて冷静かつ予想外の言葉が飛び出したのには正直驚いた。しかも、女性の大事な顔の真中にパックリと傷口をつけられた当人が平然としてそう言うのである。
私は深く感動するとともに、この女性のやっていることはいわゆるプロレスであり(その意味では)武道とは直接関係無いが、まさにこの人こそ真の武道家であると心から拍手し、修羅場に対処するその冷静さと強(したた)かさに限りない尊敬の念を禁じ得なかった。まさにプロレス恐るべしという心境であった。
もとより、プロレスもスポーツでありその意味ではルールによる勝敗はあるのであろうが、重要なことはそのスポーツ(の勝敗)と実戦(現実の戦い)との区別を明確にし、いささかも混同していないということである。
当たり前のことであるが、スポーツによるルールは勝敗を決するために作られており、当然のことながら勝敗が決すればそれで終るわけである(ただし北朝鮮のサッカーの場合は例外のようであるが)。しかし実戦(たとえば戦争のごとき現実の戦い)は、スポーツのごとく単に勝敗のみで終るわけではなく、殺した人、殺された人はもとよりのことその家族や民衆などを含め、双方に大きな傷跡を残すものなのである。これはストリートファイトにおいても本質的に同じことである。
たとえば、この女子プロレスラー氏が「売られたケンカは買わねば」と勇ましく反撃して乱闘を演じこれを倒してケガを負わせたとしよう。(スポーツ的勝敗感覚で)勝ったぜ、ざまあ見やがれ、相手から仕掛けてきたのだから私は「正当防衛」だ、と意気揚々としていても実戦(現実の戦い)はスポーツとは異なるのである。
知らせを聞いて駆けつけたきた警察官に相手の不当性をいくら主張してもケンカ両成敗と判断されるのがオチで、仮に、相手のケガが重ければ障害事件として自分が逮捕されることは必定である。このような場合、一般的には、相手はたちまち被害者に早変わりし、一方的に殴られたと主張するものなのである。もし、運悪く相手が一命を落とせばその将来は失われたも同然である。
ゆえに孫子は『怒りは以て復(ま)た喜ぶ可(べ)く、慍(いか)りは以て復た悦(よろこ)ぶ可きも、亡国は以て復た存す可からず、死者は以て復た生く可からず。故に明主は之(これ)を慎(つつし)み、良将は之を警(いまし)む。』<第十二篇 火攻>と曰うのである。ことの広狭大小はともあれ、理屈は同じことである。
つまりスポーツ的勝敗感覚で前後の見境も無くいわゆる実戦に臨むことは、社会的地位・名誉・家庭のある善良な社会人にとってメリットどころかデメリットしか生じないのである。 まさに、件(くだん)の女子プロレスラー氏の言うがごとく「私のプロレス人生は終ってしまう」ということなのである。これがスポーツのルールによる勝敗と実戦(現実の戦い)との大きな相違なのである。
ベトナム戦争は30年前に終っていても、いまだに、アメリカ軍によって大量散布された枯葉剤の影響と見られる多くの奇形児が生まれ、放置されたままの無数の地雷やボール爆弾などの不発弾は、ベトナムの人々の平和な暮らしを破壊し続けているのである。
孫子の有名な巻頭言、『兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり』<第一篇 計>とはまさにこのことを曰うのである。
因みに、日本ラグビー協会は5月20日の理事会で、この事件を起こして逮捕されたトンガ人の日本代表選手(18歳)に一年間の代表活動停止の処分を下した。飲酒の上とは言え、否、むしろそのゆえにこそ、彼の人間としての心底が曝け出されたということであり、わずかの心得違いのゆえに起きた一瞬の判断ミスによって彼の人生で失ったものは余りに大きいと言わざるを得ない。
世の中を生きる上においては真理を知ることが極めて重要である。その意味で、スポーツのルールによる勝敗と実戦(現実の戦い)との違いを明確に弁(わきま)えておくことは人間としての知性の問題である。 もし、「オレはラグビーの日本代表選手だから偉いんだ」と妄想していたとするならば(平和な社会にとって)彼は極めて危険な人物ということになる。
スポーツのルールによる勝負は、つまるところ娯楽・レジャー・歌舞音曲の類であり、いわゆる実戦(現実の戦い)とは似て非なるものなのである。この区別を弁(わきま)えずそれをあたかもスポーツのごとく錯覚して疑わなければ遅かれ早かれ、第二、第三のトンガ人ラガーマンが生まれることは必定である。 巷に氾濫するこの手のマンガやスポーツ娯楽雑誌はことさらこの悪しき風潮を喧伝しているようであるが、無垢の若者にこのような危険な思想を鼓舞することは百害あって一利なしである。
しかし、残念なことに平和ボケした日本人はスポーツと実戦とを混同している向きが多いようである。自分のアタマでものを考えることが不得手な日本人は、とりわけスポーツ雑誌などに溢れているこの種の表現に簡単に洗脳されているようである。
世界に冠たる優秀民族の日本人も、こと思考力という意味ではまさに彼のマッカーサーが指摘するがごとく「12歳の少年レベル」のものと言わざるを得ない。
重ねて言うが、いわゆる実戦とはまさにイラクで行われているようなことをいうのであり、それを体験したければフランス外人部隊にでも入ることである。実戦とは殺すかも知れないが、殺されるかも知れないという世界である。ゆえに、そもそも娯楽・レジャーの類のスポーツに実戦など有り得ようはずがないのである。こんな当たり前のことが理解できようであれば知性の欠落を疑われても仕方がない。
因みに、江戸時代のサムライ社会においてはサムライ同士のケンカは極力避けるべく様々な工夫がなされ、それをキチンと弁(わきま)えているのが心得ある武士として評価された。もとよりケンカ両成敗が武士の法度ではあるが、それよりなにより、(仇討ちの場合を除き)武士が斬り合いで相手を殺したら自分もその場で切腹するのが責任の取り方だったからである。無用な刃傷沙汰を起こしても誰も得をしないというわけである。彼の赤穂事件の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の例を見れば一目瞭然である。
この時代、武士としてもっとも軽蔑されたのは「ひき逃げ」ならぬ「斬り逃げ」であったと言われている。人を殺しておいて自分だけ逃げるなど武士の風上にも置けぬ見下げ果てた輩ということになり、武士社会から抹殺されたのである。 要するに、武士社会ではケンカをしても良いが、その場合は相手を殺して自分も切腹するということが不問律であり、それが嫌なら始めからやるな、極力、堪忍するということである。
因みに、(甲陽軍鑑によれば)武田信玄は、刀を抜かずに素手で殴り合いをした二人の武士に対し、武士にあるまじき不届きな行為として見せしめのため切腹を命じている。
素手で殴り合いをするのは百姓・町人のやることである。武士ならばなぜ刀を抜いて潔く勝負をしないのか。それが嫌なら、なぜ堪忍しないのか。そのいずれもできず、中途半端に素手で殴りあうなど甚だしく武道不心得の者である。このようなサムライは戦場では臆病な振る舞いをして物の役に立たないであろうし、武道の誉れを競う武田家中には不要の人物である、というのがその理由である。
ともあれ、件(くだん)の女子プロレスラー氏は、修羅場における一瞬において、自分の人生とトンガ人ラガーマンとの価値を秤に掛け、こんなヤツのために自分の人生を棒に振りたくないと決断したということである。これこそがまさに実戦であり、これこそがまさに真の勇気であることを我々は再認識する必要がある。
ゆえに、「トンガ人ラガーマンに何か言いたいことがありますか」とのテレビ司会者の問いかけに女子プロレスラー氏は言うのである。
「何のためにわざわざトンガから日本に来てラグビーをしているのか、そこのところを良く考えて欲しい。それが分かれば今回のようなバカなことはできないはずである。もっと自分の人生を大事にして欲しい」と。
かつて、ベトナム戦争に出かけたアメリカ軍の兵士達は、まずフットボールの試合のような感覚で実戦を経験したという話しがある。しかし、自らの手で人を殺し、戦友が殺される現実を目の当たりにした兵士たちはスポーツと実戦の違いにショックを受け、心に大きな障害を負ったという。
このトンガ人ラガーマンもまた、ラグビーの試合と実戦は似て非なるものであることを骨身に沁みて理解したはずである。我々もまた、この些細な事件を通してスポーツとは何か、実戦とは何かをしっかりと区別する必要がある。吾人が孫子を学ぶ所以である。
このことに対する社会一般の認識があやふやなゆえに、それでなくても短絡的な若者の事件が後を絶たないのである。スポーツと実戦は似て非なるものであり、これを混同することは極めて危険なことと知るべきである。今回の女子プロレスラー氏の毅然たる態度を以て我々はその範とすべきである。
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