<質問>
インド・中国・日本にまたがる武術史において、重要な役割を果たしたのが仏教僧だといわれます。沖縄が中国から北派小林拳を導入した時、仏教僧が何か重要な働きをした、もしくは、武術と同時に仏教が沖縄に移入されたという史実はあるのでしょうか。
また、そもそもインドから中国に禅と武術を伝えたといわれる達磨さんは、沖縄の文化の中で、何か象徴的な役割を果たしていますか?近代化以前の沖縄に、剣禅一如という思想があったのか興味があります。
<回答>
一般的に言えば、自己防衛の本能的行動たる武術は(その性質ゆえに)原始時代から既にその萌芽があり、やがて人間社会が組織化され、国家が形成されたときには武術もまた軍事技術の一環として成立していた考えられます。
ところで、現在確認されている中国最古の王朝は紀元前千七百年に建国された「殷(いん)」でありますが、このころには武術はすでに相当発達した段階にあったことが明らかになっております。
一方、仏教の中国への渡来は紀元前二世紀ごろのこととされ、古代殷王朝の成立から実に千五百年後のこととなります。このころ中国は春秋戦国時代を経て秦帝国に達する時代であり、軍事技術(その一環としての武術)は長足の進歩を遂げ、基本的には近世まで共通する基盤が確立されていたのであります。
逆に言えば、仮に仏教僧が(インドからの)武術の伝播に何らかの役割を果たしたとしても、その内容に見るべきものがあったかどうかは(上記の理由により)甚だ疑問と言わざるを得ません。
また、沖縄では14世紀の初めごろ(鎌倉時代後期)、本島を三分して山北(さんほく)・中山(ちゅうざん)・山南(さんなん)の各勢力が鼎立する戦乱の時代を迎えておりました。
1337年、推されて中山王となった浦添(うらじお)按司・察度(さっど)は、武力の強化を隣国・明に求め入貢しました(1372)。当然のことながら、これと競うかのごとく山北・山南も入貢しました。その回数は、中山が52回、山南が18回、山北が9回と記録されています。
この時代、少林寺は歴代の中で最も武術活動の盛んな時代であり、境内における武術訓練が日常化し、「仏に礼しては兵を論ずる」と評されるほどでした。その軍事活動も自衛にとどまらず、政府の要請を受けて中国各地の辺境に出生するなど夙(つと)にその武名(とりわけ少林棍)が鳴り響いておりました。
いわゆる富国強兵のために朝貢した軍事的弱国たる中山・山南・山北が何らかの形で少林寺武術(とりわけ棍法)の伝播を受けたと解するのが適当であります(ただし、どのような形で伝播されたのか等については余りに資料が不足していると言わざるを得ません)。
この三山鼎立の戦乱の状態は長く続きましたが、やがて尚巴志(しょうはし)が歴史の舞台に登場し、1429年(室町時代中期)、沖縄最初の統一王朝が樹立されたのです。
一般的に、武術は動乱期に発達し、その直後の安定期に体系化されると謂われております。琉球古武術・古伝空手もまたそのような歴史的経緯を経て体系づけられたものと考えられます。
巷間、実(まこと)しやかに語られるものの一つに、「沖縄の空手は薩摩の圧政に抵抗する農民のゲリラ的闘争の中で編み出されたもの」などとする珍説・迷説・俗説がありますが、これは真っ赤なウソ、全くの虚構であり、そのような史実も根拠もありません。
いわゆる為にする(ある目的を達しようとする下心があってことを行う意)言説の類と言わざるを得ません。
そもそも、佐渡島より一回り大きい程度の沖縄本島で何ほどの武力闘争ができるというのでしょうか。益してや、沖縄支配のために常駐していた薩摩藩の軍兵は三百人前後と謂われております。たとえば、捕り方に追われた彼の侠客「国定忠次」は、広大な赤城山に逃げ込みましたが、その所在はほどなく突き止められ、「名月、赤城山も今宵限り」の名セリフを残して退散を余儀なくされております。
ことがまだ中央政府の統治力が弱い奈良・平安時代ならともかく、徳川幕府によって天下統一された幕藩体制下でそのような革命もどきの武装蜂起が許されるはずも無いと考えるのが通常です。況んや、武器を用いず「素手・空手」で鉄砲や刀槍と戦ったと真顔で言われても、凡人の頭はただ困惑するのみであります。
要するに、広大無辺の中国大陸を舞台とする水滸伝や三国志の世界を(薩摩の圧政と重ね合わせた)能天気なマンガ劇作家あたりが、空手よ斯(か)くあれかし、の願望をもって単純に沖縄に当て嵌めただけの荒唐無稽な作り話に過ぎません。
普通の知性で考えればそれが信じていいことか、信じてはいけないことなのかの区別はつきそうなものなのですが。俗に謂う「鰯(いわし)の頭(かしら)も信心から」とはまさにこのようなことを言うものであります。
最後に、「中国禅宗の開祖」とされる(いわゆる面壁九年の故事の)ダルマ大師はあくまでも伝説であって史実ではないと学者は言っています。それによれば、中国禅宗の開祖という意味でのダルマ大師の生涯・思想とも未だ不明確で定説として確立された伝記は一つも存在しないということです。
況んや、少林寺における「ダルマ大師少林拳開祖説」は単なる伝説・虚構の類であり、従ってまた、(そのような意味での)沖縄との係わり合いも有り得ないということになります。
因みに、日本への仏教渡来は538年とされておりますが、沖縄に関しては寡聞にして知りません。
ついでに言えば、禅宗は中国仏教であってインド仏教ではありません。中国古来の神仙思想や道教、儒教などの風土的特色を加味して成立したものであります。
古代以来の分厚い伝統をもつ仏教の教説、とりわけ、現世と来世にわたる因果応報説に対して、(現実主義的な中国思想の立場から)来世を否定し現世における一大事、即ち生死の道を明らめようするところにその特色があります。
日本の武士が禅宗に傾倒したのはまさにそのような理由です。その意味では「剣の道」も「禅の道」も一如(異なるものではない)ということになり、その辺の事情は日本の武士も、(武術の道を窮めんとする)沖縄のサムライも何ら異なるものではない、と解されます。
ともあれ、ダルマ大師は単に禅宗の開祖、あるいはまた少林拳の開祖として仮託されたものと解するのが適当であります。
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