I、拳術と武器術の関係
命を懸けた真剣勝負という局面において、武器を持って戦う場合と、徒手空拳で戦う場合とではどちらが有利かと言えば、(マンガや妄想、はたまた呪術の世界はともかくとして)前者に軍配が上がることはもとより論ずるまでもありません。
言い換えれば、徒手空拳術たる拳術(空手)は、大軍が武器を持って戦う戦場でそのまま使用されることは少ないということであり、その意味での対敵技術の重要度から言えば、たとえば剣・刀・槍・棍(棒)などの武器術に比べ下位の技術ということになります。
しからば拳術は無用の長物かと言えば、然(さ)に非(あら)ず、余力があればまさに武門の学ぶべき武技とされ、史書にも明らかなごとく、古来、中国武術では、拳術が古い伝統を有する武術として確固たる位置を占めその独自性を示しています。
言い換えれば「拳術は、戦場で実際に用いることは少ないかもしれないが、対敵技術の中心たる剣・刀・槍・棍などの武器術を修得するための基本としては最適の武術である」ということであります。
つまりこのことは、拳術(空手)が上達すれば武器術も上達し、武器術が上達すれば拳術のより深い理解と上達が得られるため、さらに武器術の上達が促されるとという循環往復して尽きることのないスパイラルな上達構造がその背景にあるということを示唆するものであります。
中国拳術を源流とする古伝空手と琉球古武術はまさに上記のごとき思想を色濃く受け継いで発展してきたものであり、言い換えれば、同一の武術的思想と体の用法をもってその術理が組み立てられているゆえに、古伝空手と琉球古武術は、本来、全く同じものである、ということになります。
日本で「空手」と言えば、一般的に徒手空拳で行うものとのイメージが定着しているようでありますが、それはあくまでもスポーツ空手(現代空手)というひとつの側面を言うものではあっても、武術空手という観点においては大いなる誤りであり、まさに「その一を識(し)るも、その二を知らず」のごとき片面的思考と言わざるを得ません。
いやしくも道具を使うことによって進化してきた霊長類たる人間同士の戦いが、単なる素手の戦いに終始することなど有り得ようはずもなく、まず武器としての道具を使うことが優先されることは理の当然であります。
さらに言うならば、武器をもった人間集団の戦いは、そこに兵法(作戦・用兵)という知恵が加わることによって、単なる力の争いの場から知略(知恵)の争いの場へ変質するのであり、その兵法は孫子の曰う『詭道』<第一篇計>をもって本質とするということになります。
ともあれ、古伝空手と琉球古武術は陰陽一体・車の両輪の関係にあり、一つの物の両面ゆえに、その片面だけを見てそれをすべて分かった積もりになってはいけないということであります。
言い換えれば、古伝空手は琉球古武術の根幹であり、まずその術理を学び修練することにより、武術的思想と体の用法を同じくする琉球古武術は容易に修得できるという関係にあります。逆に言えば、古伝空手を真に理解しその上達を図るためには琉球古武術を学ばなければならないということです。
このような循環往復して尽きることのないスパイラルな上達構造の方法論は、ひとり琉球武術のみに限らず、日本武道の淵源たる古流武術(いわゆる古武道)にも顕著に見られるところであります。たとえば、鹿島神流武術の場合で言えば、その体系の根幹とでも言うべき(徒手空拳たる)柔術の武術的思想と体の用法が体得されれば、その表芸の中核たる剣術はおのずから出てくると言われるような形態になっており、以下同様に、抜刀術・槍・薙刀・棒・杖などの武術体系が効率的かつ合理的に修得される仕組みになっています。
極論すれば、剣術の免許が十年とすれば、槍の免許は三日あれば足りる、とまで言われております。要するに、使う武器の長さ・形状・使い方などが異なるだけでそこに流れている武術的思想と体の用法は共通しているため、とりわけその特殊性や相違点を良く弁(えて稽古すれば足りるというわけであります。しかして、それらの武芸の根幹は、(徒手空拳の術たる)柔術にあるというわけであります。「拳とは武芸の源なり」とは、江戸時代、日本の柔術家に愛用された言葉でありますが、その根拠はまさに上記のごとき理由にあるわけであります。
因みに、同じような意味で「スポーツ空手は琉球古武術の根幹である」と言えるのかとなると、答えは明白にNOであります。つまり、スポーツ空手はあくまでも競技のルールに則り競技のポイントを取ることを目的として修練されるものでありますから、そもそも武術たる古伝空手や琉球古武術とはその本質を異にするものなのです。
譬えて言えば、初めから武器を使う思想など全く無いボクシングやキックボクシングの選手にそのテクニックをもって武器を使えと言っているようなものであり、まさに「木に縁りて魚を求む」がごときものであります。このゆえに、古伝空手は琉球古武術の根幹であるとは言えても、スポーツ空手(現代空手)は琉球古武術の根幹であるとは言えないのであります。
ところで上記の「拳とは武芸の源なり」とは、拳術と武器術の関係について言うものでありますが、因みに、棍(棒)術と武器術の関係については、「棍は武器術の根幹であり、棍法を修得すれば、他の武器もおのずから使いこなすことができる」と言われております。
とりわけ、明の茅元儀(ぼうげんぎ)が15年の歳月を費やして古今の兵書二千余種を編集整理して著した武備志(ぶびし)には「全ての武術は棍法(棒術)を宗(大本)とし、棍法は少林を宗(大本)となす」とあります。
以上の関係を整理しますと、拳術は全ての武器術の源であること、また、棍(棒)術は全ての武器術の根幹であり、その棍(棒)術の大本は少林寺の棍法にある、ということが言えます。因みに、古伝空手は北派少林拳と南派少林拳の二種の系統に分類されますが、琉球古武術には特にそのような区別はありません。取りも直さずそのことは、沖縄における三山割拠の戦国時代、崇山(すうざん)少林寺の棍法が北派少林拳とともに伝来し、それが次第に沖縄化していったものが(基本的には)琉球古武術の棒術と解することができます。
琉球古武術においては八種の武器(棒・サイ・トンファー・ヌンチャク・鎌・鉄甲・ティンベー・スルジン)が用いられますが、とりわけ棒術は真に優れたものであり、まさに琉球古武術の華とでも称すべきものであります。そのゆえに、琉球古武術でまず始めに学ぶべき武器術が棒術であり、この棒術の武術的思想と体の運用を踏まえて、以下順次、サイ・トンファー・ヌンチャク・鎌・鉄甲・ティンベー・スルジンと学んで行くシステムが取られています。
見方を変えて言えば、そもそも、長・短の武器を状況に応じて用いるのが兵法の基本であるため、琉球武術もまた、まず長い武器(棒)を学び、次いで短い武器(サイ・トンファー・鎌・ティンベー)学び、最後に隠し武器(ヌンチャク・鉄甲・スルジン)を学ぶシステムとも言えます。それによって、その長短各種の武器の弱点(死角)を発見して徒手空拳術たる空手の要素(素手で武器に立ち向かう技術)としながら、さらに武器術の長所化を研究するという構成になっています。
また、角度を変えて見れば、八種の武器は、一つの武器を両手で持って操作するものと(棒・ヌンチャク・スルジン)、一対の武器を両手で持って操作するもの(サイ・トンファー・二丁鎌・ティンベー)とに分けることができます。因みに、日本古武道の場合は(いわゆる二刀流や鎖鎌術の場合を除き)剣術に代表されれがごとく一つの武器を両手で操作するのが基本です。
重要なことは、一見すると、後者のサイ・トンファー・二丁鎌などは、いかにも中国的要素に満ちた使用法であり前者の棒・ヌンチャクなどの用法とは異なるように見えますが、実は前者においても(後者のごとく)両手による陰陽の動き、体の捌きという原理が明確に働いているため、(外見上はともかくとして)両者の用法は同じということになります。
II、古伝空手の訓練法としての琉球古武術の効用
すでに説明したごとく、古伝空手の技法と琉球古武術の技法は本質的に同一のものであるため次のことが言えます。すなわち、一定の重さのある八種の武器を使用する琉球古武術を練武することは、単に徒手空拳術としての古伝空手を練武することと比べてかなりの負荷がかかるため、その重さに熟達していれば、同じ技法たる古伝空手を練武するときは(その重さが外れるため当然のことながら)より伸び伸びとした身体運用が可能となり自然に手足が早くなります。中国武術ではこれをいわゆる「練手の力」と言います。
この事情は古伝空手の重要要素の一たる「捌き」においても全く同様であります。すなわち、一定の重さのある八種の武器を使用して琉球古武術を練武することは、単に徒手空拳術としての古伝空手を練武することと比べてかなりの負荷がかかるため、その重さに熟達していれば、同じ技法たる古伝空手を練武するときは(その重さが外れるため当然のことながら)より伸び伸びとした身体運用が可能となり自然に「捌き」は軽便となります。中国武術ではこれをいわゆる「練足の力」と言います。
言い換えれば、棒術は総合技術、サイ術は手刀系の技術、トンファー術は裏拳および肘系の技術、ヌンチャクは言わば携帯棒で棒術の部類に属し、鎌術は掛け手、繰り手の技術であり、鉄甲術は特殊な使い方以外は、全て徒手空拳術たる古伝空手と同じであるため、琉球古武道の各武器は、古伝空手各技の練習具としても役に立つということであります。
III、武器を操作するという身体的制約が古伝空手の稽古におよぼす効用
徒手空拳の体術たる古伝空手は、(武器を使用するという意味での)物による制約がないため、ともすれば無意識の内に自分の好みの筋肉運用しかしなくなり、いわゆる「体力に頼った力まかせ」の身体運用に陥る危険性があります。
一方、物による制約がある場合、たとえば野球のバット、あるいはゴルフのクラブを振る場合において、初めのうちは誰しもが(バットやクラブを)自分の習性となった好みの筋肉運用によって力まかせに振り回し勝ちでありますが、やがて時間をかけ経験を重ねるうちに、その物の形状や性質に合わせた無駄・無理のない振り方(いわゆるコツ)があることに気がつき、今度はそれに従ったやり方を自身の脳と体に刷り込もうとします。
この道理は、古伝空手と琉球古武道の関係においてもそっくりそのまま当て嵌(は)まることはもとより言うまでもありません。否、むしろ、そもそも手足を武器化することを標榜して止まない空手にあっては、まさに、棒・サイ・トンファーなどの武器を用いる理論をもって(武器としての)拳足を用いることに留意することは当然のことであり、いまさら言うも愚かなことであります。
いずれにせよ、日本本土における「空手事始め」のそもそもから今日に至るまで、武器を用いない、否、知ろうともしないゆえに空手の本質から大きく外れてしまったスポーツ空手(現代空手)はともかくとして、古伝空手においては、武器を用いるまさにそのままのコツや理論をもって、受け・突き・打ち・蹴り・捌きなどの稽古を行うということは常識であり、そこに特色があります。
逆に言えば、古伝空手と琉球古武術は体力に頼った、いわゆる力まかせの武道ではないことを証明するものであり、従って、必ずしも体力や健康に恵まれない方々にとっても、無理なく稽古することができ、中高年になってからでも容易に親しむことが可能となるのであります。
IV、琉球古武術の健康法としての効用
最新の神経科学分野の研究によれば、歩く、噛むという連続的な運動(周期運動)より、物を掴(つか)んだり、ボールを蹴るという断続的な運動(離散運動)の方が、脳の活動は活発になることが突き止められております。
すなわち、歩く、噛むという周期運動の場合、主に大脳皮質のうち、運動に関連した部分が活動するだけですが、物を掴(つか)んだり、ポールを蹴る離散運動だと、周期運動よりも広い範囲の大脳皮質が活動し、さらに小脳の活動も確認されております。
この物を掴(つか)むという運動に着目すれば、棒・サイ・トンファー・ヌンチャク・鎌など八種の武器を使用する琉球古武術は、まさに大脳と直結する触覚細胞が一番多く集中している「手」を、とりわけ多様かつ複雑に使用するものであるため、上記の研究結果のごとく、大脳の使用エリアを拡大し中枢機能を高める効用があると言えるのであります。
また、古伝空手・琉球古武術は、いわゆる実戦の場で編み出された伝統武術(古武術)そのものであるため、これを稽古することにより、伝統武術、すなわち真の護身術というイメージによる意識の転換が生じて、伝統武術の特性たる人生万般に通じる戦いの哲学に目覚めるとともに、自分の体は自分で護れるという自信が湧いてきます。
自分の体を自分で護れることが、精神安定の根本であり、健康を保つ基本であるゆえに、その意味でも、まさに琉球古武術・古伝空手は最適な健康法ということができます。
V、琉球古武術の窮極の目的
琉球古武術で使用する八種の武器、すなわち、棒(六尺棒・九尺棒・砂掛け棒・三尺棒)・サイ・トンファー・ヌンチャク・二丁鎌・鉄甲・ティンベー・スルジンは、角度を変えて見れば、言わば長さと形状が定められた武器であります。琉球古武道では、この定型的な八種の武器についてそれぞれ使い方・基本組手を学びつつ、技の習熟度に応じて42種ある各型の分解組手や総合組手を稽古することになります。
もとよりこれを完全に修得することは、単に教えられたからと言って容易に出来るものではなく、あくまでも当人の努力と不断の稽古に掛かっているものでありますが、しかしそれとても琉球古武道の窮極の目的という観点からすれば、あくまでも一つの段階に過ぎません。
すなわち、琉球古武術の最大の目的は、長さと形状が定められている八種の武器の用法に精通していることを踏まえて、さらに不定型な物、すなわち、どんな形状の物、どんな長さの物、またはどんな大きさの物でも自由に使用できるくらいの技量、言い換えればそのようなものを活用することができる言わば無形の技量に達することであります。
以上をまとめれば、次のように言うことができます。すなわち、いやしくも道具を使うことによって進化してきた霊長類たる人間同士の戦いが、単なる素手の戦いに終始することなど有り得ようはずもなく、まず武器としての道具を使うことが優先されることは理の当然であります。
とは言え、「拳とは武芸の源なり」でその武器を適切に使うためには徒手空拳の武術たる拳術(空手)を学ぶ必要があり、また「棍は武器術の根幹である」ことから、(物の順序から言えば)拳術と棒術は武器術を修得するための基本ということになります。
このゆえに、琉球古武術においては、まず棒の修練から入って行き、隠し武器としてのスルジンで終るわけでありますが、而してその琉球古武術の究極の目的は、利用できるあらゆる物を自由に使いこなすことができるというレベルに達すること、言わば無形の技量に到達することにあります。
角度を変えて言えば、武器を持った人間の戦いは、そこに有形・無形の要素を総合的に活用して勝ちを求める「兵法」という知恵が加わることによって、単なる力の争いの場から、知略(知恵)の争いの場へ変質するのであり、而してその兵法は孫子の曰う『詭道』<第一篇 計>をもって本質とするということになります。
このゆえに、徒手空拳の武術たる古伝空手と、利用できるあらゆる物を自由に使いこなすことを目的とする琉球古武術の最大の目的は、まさに人間の叡智たる窮極の武術的思想、すなわち「兵法」を志向するものと言うことができるのであります。
すなわち、平素から怠惰の誘惑に打ち克ち習慣として武術を稽古するのは、己の心身の錬磨であることはもとよりのこと、その効用としての武術的思考力の養成、そして何よりも護身術としての技術の向上を図るためであります。
而して、その真の目的は、そのようにして培った言わば武力をこれ見よがしに誇示し、こと有らばこれを使おうとすることではなく、稽古に裏づけされた無形の威力により「戦わずして」相手の闘争意志を挫くことにあります。逆に言えば、そのために、平素の苦しい稽古に耐えているということであります。
とは言え、世の中は話せば分かる人ばかりではなく問答無用と打ちかかってくる虎狼のごとき輩もおります。そのような場合、相手の油断を誘いその虚を生じさせる意味で己の意図を相手に感知させず無形の構えをとることが重要となります。逆に言えば、いやしくも武道家たる者、平素の物腰態度はあくまでも柔和にして穏やかでなければならないのです。
孫子の曰う『兵とは、詭道なり』<第一篇 計>、あるいは『兵は詐を以て立ち』<第七篇 軍争>とはまさにそうゆう意味です。言い換えれば、敵を欺くためには『始めは処女の如き』<第十一篇 九地>態度が必要なのです。
そしてひとたびことが起きた場合、まず武器を用いること、これが鉄則です。そもそも戦いに綺麗も汚いもない、要はいかに勝つかということです(因みに、いわゆる「正々堂々」は孫子<第七篇 軍争>に見られる言葉ですが、それは世間一般で使われているような意味とは全く異なります)。ゆえに身近に棒・サイ・トンファーなどがあればもとよりそれを使い、無ければ予(か)ねて用意の隠し武器たるヌンチャク・鉄甲・スルジンなどを用いるのは言わずもがなのことであります。
次にそれも無い場合、今度は周囲にある物を武器としていかに活用するかということになります。たとえば、鉛筆やはさみは相手の急所を突く鋭い武器となり、たとえば砂や土は相手への目潰しとして有効であるし、手ごろな石は石つぶてという一種の飛び道具となり、掴んで打てば強力な打撃力を形成します。椅子や机は相手の攻撃を禦ぐ強力な楯となり、同時に有効な反撃力を形成します。
実はこのように利用できるあらゆるものを自由に使いこせるようになることが琉球古武術の真の目的であり、そこに必要なのはまさに兵法的な創造力であり想像力なのです。その感覚を養うために平素から定型的な長短・各種各様の武器の使用法を稽古し、その扱いに慣れるという訳であります。
最後に、どうしても素手で戦わなければならない場合、言い換えれば兵法的には最悪の場合、初めて徒手空手の術たる空手を用いるということであります。その場合と言えども、兵法の鉄則たる「最小の力で最大の効果を上げる」ために「我の最も強い部分で相手の最も弱い部分を攻撃する」ことは当然のことであります。たとえば、中高一本拳、肘、膝、手刀などの使用による目突き、喉突き、金蹴りの類であることは論を待ちません。
以上のごとき戦略戦術は、紛れもなく孫子兵法に曰う戦いの三要素、すなわち「五事・七計・詭道」とその軌を一にするものであり、同時に、「兵は不祥の器・兵は凶器」のいわゆる不戦の思想に直結するものであります。つまり、本来、戦いというものは(それが上記のごとき個人レベルのものであれ、国家レベルのものであれ)敗ければもとよりのこと、たとえ勝ったとしても敵を傷つけ、みずからもまた傷つき倒れる不毛にして無益の道である。ゆえに、真に已(や)むを得ずして用いる場合はともかくとして、みだりにこれを用いてはならないと。
日本武道の金言「武は心に蔵して外に示さず」、空手の訓言「喧嘩争いは(金で)買っても捨てよ」、はたまた「空手に先手なし」とはまさにそのようなことを言うものであります。言い換えれば、孫子兵法に曰う「戦わずして勝つ」の側面を論ずるものであります。
而してまた、不幸にして、戦いが不可避の場合はどうするか、そのための不断の備えが古伝空手・琉球古武術の稽古に他ならないと言うのであります。つまりこれは、孫子兵法に曰う「戦いて勝つ」の側面を論ずるものであります。
いずれにせよ、(命を懸けた真剣勝負に由来する古武術という)ことの性質上、古伝空手・琉球古武術の武術的思想と術理は、孫子兵法を理解するための適切な生きた教材となるということであります。古伝空手・琉球古武術と孫子兵法を併修する所以(ゆえん)がここにあります。
VI、琉球古武術保存振興会川口支部・拓心観道場の武器術指導体系の一覧
一覧表はこちら ※一覧表は携帯ではご覧頂けません。携帯の場合は下記をご覧く下さい
T 【棒術】
◆使い方、及び基本組手
@使い方(5・5・5)
A基本十本組手
B連続組手
◆型の種類、及び各型の分解組手
@周氏の棍(小)
A周氏の棍(大)
B周氏の棍(古式)
C佐久川の棍(小)
D佐久川の棍(大)
E佐久川の棍(中)
F添石の棍(小)
G添石の棍(大)
H趙雲(ショウウン)の棍
I知念志喜屋仲(チネンシキャナカ)の棍
J瀬底の棍
K末吉の棍
L金剛の棍
M浦添の棍
N北谷屋良(チャタンヤラ)の棍
O白樽の棍(小)
P白樽の棍(大)
Q津堅砂掛けの棍
R米川(ヨネカワ)の棍
S三尺棒
21津堅棒
22九尺棒
◆総合分解組手
@周氏の棍(小・大・古式)
A佐久川の棍(小・中・大)
B添石の棍(小・大)
C白樽の棍(小・大)
U 【釵術】
◆使い方、及び基本組手
@使い方
A基本九本組手
B連続組手
◆型の種類、及び各型の分解組手
@津堅志多伯(ツケンシタハク)の釵
A浜比嘉の釵
B北谷屋良(チャタンヤラ)の釵
C卍慈元の釵
D多和田の釵
E屋可阿(ヤカア)の釵
F端多小(ハンタグワ)の釵
G湖城の釵
◆総合分解組手
V 【トンファー術】
◆使い方、及び基本組手
@使い方
A基本十本組手
B連続組手
◆型の種類と各型の分解組手
@浜比嘉のトンファー
A屋良小(ヤラグワ)のトンファー
◆総合分解組手
W 【ヌンチャク術】
◆使い方、及び基本組手
@使い方
A基本十二本組手
B四方振り
◆型の種類と各型の分解組手
@練習型(小)
A練習型(大)
B三節棍(三本ヌンチャク)の型
◆総合分解組手
X 【鎌術】
◆使い方、及び基本組手
@使い方
A基本十本組手
B連続組手
◆型の種類、及び各型の分解組手
@当山の二丁鎌
A鐘川の二丁鎌(大)
B鐘川の二丁鎌(小)
◆総合分解組手
Y 【鉄甲術】
◆使い方、及び基本組手
@使い方
A基本十本組手
B連続組手
◆型の種類、及び各型の分解組手
@前里の鉄甲
Z 【ティンベー術】
◆使い方、及び基本組手
@使い方
A基本十本組手
B連続組手
◆型の種類、及び各型の分解組手
@鐘川のティンベー
[ 【スルジン術】
◆使い方、及び基本組手
@使い方
A組手十五本
B四方振り
◆型の種類、及び各型の分解組手
@短スルジン
A長スルジン
◆総合分解組手